遊佐高清とは? わかりやすく解説

遊佐高清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/11 23:50 UTC 版)

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遊佐高清
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
官位 左衛門大夫越中守
幕府 室町幕府 紀伊守護代?
主君 畠山高政秋高
氏族 遊佐氏
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遊佐 高清(ゆさ たかきよ)は、戦国時代武将尾州畠山氏の家臣。紀伊国守護代であったとする史料もある[注 1]

略歴

河内国守護代・遊佐長教の一族であると考えられている。畠山高政偏諱を受け、永禄年間後期から河内・紀伊の守護畠山氏の奉行人として行動している。

畠山氏が三好氏と戦った永禄5年(1562年)の久米田の戦い教興寺の戦いでは旗本衆・譜代衆を指揮するなど武将としても活動しており、能力的にも畠山氏を支えた遊佐氏一族として見劣りしない力量者であったと評価されている。永禄10年(1569年)までの存命は確認されており、天正4年(1576年)の畠山高政の死去を見守った家臣の一人「遊佐越中殿」もこの遊佐高清であるとされるが、異説もある。

従来は遊佐長教の暗殺後、その子・信教が成長するまでの繋ぎとして活動したと考えられていた[注 2]。しかし、近年の研究では、畠山高政の側近の奉行で、寺社の監督を主に担当していたこと、その他家中の統制においても大きな役割を果たしていたとする史料もあり、遊佐長教の執政期に勢力を失った主君・畠山高政の下で、遊佐長教系と対立する形で畠山氏を支えていたことが明らかになった。

脚注

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注釈

  1. ^ 弓倉弘年は、高清と同時期の紀伊守護代を遊佐盛と推定している[1]
  2. ^ 信教成長までの家督代行者としては遊佐太藤が考えられている[2]

出典

  1. ^ 弓倉 2006, p. 97-98.
  2. ^ 小谷 2003, p. 130.

参考文献

  • 弓倉弘年 『中世後期畿内近国守護の研究』 清文堂出版、2006年。 
  • 小谷利明 『畿内戦国期守護と地域社会』 清文堂出版、2003年。 




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