跡部重政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/02 16:42 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天正3年5月21日(1575年6月29日)[1] |
改名 | 重政→正秀[1] |
別名 | 九郎三郎、九郎左衛門[1] |
戒名 | 跡昌[1] |
官位 | 右衛門尉 |
主君 | 武田信玄→勝頼 |
氏族 | 横田氏→跡部氏 |
父母 | 父:横田重晟 養父:跡部勝忠[1] |
妻 | 跡部勝忠の娘[1] |
子 | 正次、弥平、横田喜兵衛、甫庵 |
跡部 重政(あとべ しげまさ)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏家臣。
生涯
武田信虎の家臣・横田重晟(下野守)の三男として生まれる[1]。
『寛永諸家系図伝』では重政の代に跡部へ改姓したとされるが、改正理由は定かではない。『寛政重修諸家譜』では跡部勝忠の婿養子となって跡部姓を称したとしており、後に正秀と改名したとされる[1]。丸島和洋は信玄によって跡部姓を与えられた存在ではないかと推定している。
武田信玄に仕えて軍中の使番に任じられ、蜈蚣の指物を許された[1]。
信玄の四男・勝頼が諏訪氏の名跡を継承して高遠城主となった際には、武田氏から重政を含む8人がその家臣として付けられた[2]。
天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで戦死した[1]。
子孫
嫡子・正次の生母は跡部勝忠の娘とされ、重政の戦死によって家督を相続し武田勝頼の小姓として仕えたが、武田氏滅亡後は徳川家康に出仕し、後に松平忠輝に付けられ慶長17年(1612年)2月21日に39歳で死去した。子孫は旗本として存続している[1]。
次男・弥平は徳川秀忠に召し出されたが、後に罪を被って奥平家昌の召し預かりとなり、三男・横田喜兵衛と四男・甫庵は藤堂高虎、青山幸成にそれぞれ仕えた[1]。
出典
参考資料
- 『寛政重脩諸家譜 第二輯』國民圖書、1923年4月29日。
- 跡部重政のページへのリンク