蕭合卓とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 蕭合卓の意味・解説 

蕭合卓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/08 03:42 UTC 版)

蕭合卓(しょう ごうたく、? - 太平5年12月17日[1]1026年1月8日))は、(契丹)の政治家は合魯隠。契丹突呂不部の出身。

経歴

はじめ突呂不部の吏となった。統和初年、南院侍郎に任じられた。統和18年(1000年)、北院枢密使韓徳譲の推薦を受けて中丞となった。統和28年(1010年)2月、皇太后の命を受けて北宋に使いした。帰国すると、北院枢密副使となった。開泰3年(1014年)、左夷離畢となった。

合卓は聖宗の側近にいることが長く、典故に明るく、よく助言をおこなった。開泰5年(1016年)4月、北院枢密使に上った。開泰6年(1017年)、合卓が都統となり、王継忠を副都統とし、蕭屈烈を都監として、高麗の興化軍を攻撃したが、勝利できなかった。帰国すると、任用を求める人が門前に列をなしたが、合卓は生活ぶりを変えようとしなかった。聖宗はかれの清廉ぶりを知って、皇族の娘を合卓の子の妻とした。

太平5年12月(1026年1月)、合卓は病の床についた。聖宗がかれを見舞おうとしたが、合卓は見苦しいところを見せたくないと言って固辞した。12月、北府宰相の蕭朴が見舞いに訪れると、合卓はその手を取って、「わたしが死ねば、君は必ず枢密使となろう。自分を越える者を登用してはならない」と遺言した。その日のうちに合卓は死去した。

子の蕭烏古は、突呂不部節度使となった。

脚注

  1. ^ 『遼史』巻17, 聖宗紀八 太平五年十二月乙丑条による。

伝記資料

  • 遼史』巻81 列伝第11



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「蕭合卓」の関連用語

1
30% |||||

2
16% |||||

3
6% |||||

蕭合卓のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



蕭合卓のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの蕭合卓 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS