董重質
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董 重質(とう じゅうしつ、生年不詳 - 834年)は、唐代の軍人。
経歴
はじめ淮西の牙将であった。呉少誠の娘婿となった。その性格は勇敢で、軍事にくわしく、用兵を得意とした。元和9年(814年)、呉元済が反乱を起こすと、重質がその謀主となり、大軍を運用して連年にわたって官軍の攻勢を阻んだ。元和12年(817年)、宰相の裴度が淮西の兵を率いることとなり、郾城までやってくると、呉元済は側近と蔡州の守城の兵を重質に委ねて裴度を阻ませた。ときに李愬が虚に乗じて蔡州に入った。李愬は呉元済を捕らえ、蔡州にいた重質の家族の身柄を確保して、重質の子に手紙を持たせて重質を召し出そうとした。重質はその子と面会して蔡州の陥落を知ると、単騎で李愬に帰順し、白衣でひれ伏して沙汰を待った。李愬は重質を賓客の礼で遇した。憲宗は重質を殺そうとしたが、李愬が一死を許すよう上奏したため、重質は死を免れ、春州司戸参軍に左遷された[1][2]。
元和13年(818年)、重質は太子少詹事に転じ、武寧軍収管駆使を委ねられた。元和15年(820年)、長安に召還されて入朝し、左神武軍将軍に任じられ、知左神武軍事をつとめ、御史中丞を兼ねた。ほどなく塩州刺史として出向した。さらに左右神策及諸道剣南西川行営節度使となり、検校左散騎常侍をつとめた。大和4年(830年)、夏綏銀宥節度使に転じた。大和5年(831年)、検校工部尚書を加えられた。重質は兵士の訓練に法を立て、周辺民族に恐れられた。大和8年(834年)8月、死去した。尚書右僕射の位を追贈された[3]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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