舟橋秀相
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舟橋 秀相(ふなはし ひですけ、慶長5年(1600年) - 正保4年9月15日(1647年10月12日))は江戸時代の公家。広澄流清原氏嫡流舟橋家2代当主である。官位は従三位。
舟橋秀賢の子[1]。妻は吉田兼治の娘[2]。子に舟橋相賢、経賢、弘賢[1]、本多正綱室[3]。
慶長20年(1615年)6月24日に従五位下式部少輔に叙任。元和6年(1620年)1月5日に従五位上、元和9年(1623年)1月5日に正五位下に昇り、1月11日に明経博士となる。寛永5年(1628年)1月5日に従四位下となり、寛永9年(1632年)1月11日に少納言に就任。寛永10年(1633年)1月6日に従四位上となり、1月12日より侍従を兼任する。寛永14年(1637年)1月5日に正四位下となる。寛永20年(1643年)9月15日に少納言を辞する。正保3年(1646年)12月27日に従三位に昇るが[4]、翌正保4年(1647年)9月15日に死去した[5]。
脚注
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