織田信成 (戦国武将)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 織田信成 (戦国武将)の意味・解説 

織田信成 (戦国武将)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/31 10:34 UTC 版)

 
織田信成
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正2年9月29日1574年10月13日
改名 市介[1][2](幼名)、信成
別名 津田信成、通称:市之助[1]、東市佐[2]
主君 織田信長
氏族 織田氏(津田氏)
父母 父:織田信光
兄弟 信成信昌[3]、仙千代[4]
小幡殿織田信秀の娘)
正信、光徳院
テンプレートを表示

織田 信成(おだ のぶなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は市之助、東市佐。織田信光の子で、妻は織田信秀(信光の兄)の娘(小幡殿)であったので、織田信長とは従兄弟の間柄で、かつ義兄弟でもあった。

姓は、織田庶家に多い津田姓も用いたため、同名の津田信成織田武蔵守信成(信行)と混同されることがあるが、それぞれ別人である。

略歴

守山城主だった織田信光の長男として誕生。

弘治元年(1555年)、那古屋城主として威を振るった父・信光が殺害された後は信長に従ったらしいが、この時の詳しい経緯は不明[2]

小幡城[5]主となるが、同城はしばらく後に廃城となった。

元亀2年(1571年)の第一次長島攻めや、天正元年(1573年)7月の槙島攻め、同年8月の浅井・朝倉攻めに従軍。

天正2年(1574年)9月29日、第三次長島攻めに参加。戦いの終盤において、追い詰められた一揆側の捨て身の攻撃を受けて、他の一門衆と共に戦死した[6]

系譜

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 阿部 1990, p.218
  2. ^ a b c 谷口 1995, p.119
  3. ^ 織田信実の養子。
  4. ^ 系図纂要』による。『織田系図』では「お千」とされる。
  5. ^ 愛知県名古屋市守山区西城。
  6. ^ 『織田系図』では伊勢国浅香で討死にとする。
  7. ^ 谷口 1995, p. 123.

参考文献

  • 阿部猛; 西村圭子 編 『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、218頁。ISBN 4404017529 
  • 川口素生 『織田信長101の謎 : 知られざる私生活から、「本能寺の変」の真実まで』PHP研究所、2005年。ISBN 4569664318 
  • 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』吉川弘文館、1984年、285頁。 
  • 谷口克広; 高木昭作(監修) 『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、119頁。ISBN 4642027432 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「織田信成 (戦国武将)」の関連用語

織田信成 (戦国武将)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



織田信成 (戦国武将)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの織田信成 (戦国武将) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS