第1次英緬戦争とは? わかりやすく解説

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第一次英緬戦争

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/05 03:23 UTC 版)

第一次英緬戦争
英緬戦争

イギリス軍によるラングーン攻撃(1824年)
1824年3月5日 - 1826年2月24日
場所 コンバウン朝ビルマとその周辺地域
結果 イギリスの勝利、ヤンダボー条約英語版の締結
衝突した勢力

イギリス帝国

ビルマ王国

戦力
イギリス軍: 40,000 タイ軍: 20,000 ビルマ軍: 30,000 同盟勢力: 10,000

第一次英緬戦争(だいいちじえいめんせんそう、英語: First Anglo-Burmese Warビルマ語: ပထမအင်္ဂလိပ်-မြန်မာစစ်)は、コンバウン朝ビルマ大英帝国のあいだで1824年から1826年にかけて行われた戦争である。西方に進出を進めるビルマと同国に領土的野心を燃やすイギリスが衝突したことにより発生した戦争であり、1826年のヤンダボー条約英語版締結により終戦した。

同戦争を通してビルマは多額の賠償を抱えたうえ、アラカンをはじめとする多くの領土を失った。一方で、イギリスにとってもこの戦争は極めて大きな負担であり、イギリス領インド帝国に経済危機をもたらした。 

開戦

1784年にコンバウン朝ビルマはムラウウー朝アラカン王国を滅ぼし、多くの難民がイギリス東インド会社の支配地となっていたチッタゴンに流入した[1]。また、1822年までにビルマはマニプル英語版およびアーホームを征服し、ジャインティア英語版カチャール英語版といった丘陵諸邦にまで進出した。イギリスはジャインティアおよびカチャールを保護国と宣言し、軍を派遣した[2]。フランスとの植民地獲得競争を背景に、イギリスにとっての中国と陸路で国境を接するビルマの戦略的価値は高まっていた。東インド会社の外交は、それまでの消極的なものから領土獲得を主眼とした植民地主義的外交に移行しつつあった[1]

当時のコンバウン朝はバジードー英語版王の治世下であり、軍の指揮官であったマハー・バンドゥーラ英語版は対英戦争を主張した[3]。バンドゥーラはイギリスに戦勝することは、ビルマの西方の領土を固め、東ベンガル獲得への道筋をも開くものと考えていた[2]。1823年、イギリス領インドとアラカンの国境に位置するナーフ川英語版河口の島であるシンマピュー島英語版を巡って両軍は衝突した。ビルマはイギリス軍のセポイが旗を掲揚したことを挑発と、一方でイギリスはビルマ軍の行為を一方的な戦争行為とみなした[4]。これに加え、ビルマのカチャール侵入も開戦事由となった[1]

戦闘

初期の戦闘

マハー・バンドゥーラは自らの直属部隊を含む、10,000人の歩兵と500の騎兵からなる12師団を指揮した。ビルマ軍は南東のアラカン方面からチッタゴン、北のカチャールおよびジャインティア方面からシレットを攻撃する作戦を立て[2]、アラカン戦線の指揮官にはバンドゥーラが、カチャール=ジャインティア戦線の指揮官にはタドーティーリマハー・ウザナ(သတိုး သီရိမဟာ ဥဇန)がついた[3]

戦争の初期においては丘陵地帯の地形をよく知るビルマ軍が優勢であり[5]、1824年5月にはウー・サ英語版率いる4000人の部隊が[6]、ベンガルに侵入し、5月17日のラムの戦い英語版を制した[7]。サらの軍はゴードーパリン(Gadawpalin)でもイギリス軍に勝利し、続けてコックスバザールを占領した[8]。ビルマ軍の進撃はチッタゴンおよびカルカッタを恐慌状態に陥らせ[9]、東ベンガルではヨーロッパ人による自警団が組織された[10]。バンドゥーラはむやみな戦線拡大を防ぐためチッタゴン進撃を制止したが、当時の同都市はほとんど無防備であり、歴史家のティンアウン英語版は仮にビルマ軍がそのままチッタゴンを攻略し、カルカッタを威圧できていたならば、より有利な講和を結べたであろうと論じている[11]

イギリス軍のラングーン上陸

チーミンダイン(Kemmendine)陣地攻略戦(1824年7月10日)

イギリス軍は丘陵地で戦闘を続けるのではなく、ビルマ本土を攻撃することを選んだ。1824年5月11日にイギリス海軍は10,000人(イギリス兵5,000人・セポイ5,000人)をラングーン(ヤンゴン)港に上陸させ、ビルマを奇襲した[12][13]。ビルマは焦土戦術を取り、ラングーン東西16kmに弧状の防御陣地を組んだ。アーチボルド・キャンベル英語版率いるイギリス軍はシュエダゴン・パゴダを要塞化して布陣し、7月までにビルマ軍をカマユッ英語版まで退却させた。9月に行われたシュエダゴン奪還作戦は失敗した[14]

バジードー王は西部戦線からバンドゥーラおよびウザナを呼び戻し、ラングーンに布陣するイギリス軍と対峙させようとしたが、雨季の最中である8月にアラカン山脈を退却することは容易ではなかった[15]。11月までにバンドゥーラはラングーンに布陣するも、その軍勢については資料により極めて大きな乖離がある[16]。ビルマ側の記録では16,000人となっている一方[17]、イギリス側の資料では30,000人から60,000人となっており、テレンス・ブラックバーン(Terrance Blackburn)はこの数字がキャンベルによる誇張であることを疑っている[16]。バンドゥーラは数で劣るイギリス軍は正面攻撃可能であると考えていたが、ビルマ軍の兵士のうち銃士は全体の半数にすぎず、残りは槍ないし剣のみで武装していた。また、ビルマ側の大砲が砲丸しか撃てなかったのに対し、イギリス側は榴弾を装備していた[12]。さらに、イギリス軍はビルマ軍が認知していない新兵器であるコングリーヴ・ロケットを装備していた[15][18]。11月30日、バンドゥーラはシュエダゴンを正面攻撃したものの、装備に優れるイギリス軍を打ち崩すことはできず、数千人の兵力を失った。12月7日にはイギリスが攻勢に転じ、15日にはビルマ軍はコキン(Kokine)に残る陣地を失った[18]。16,000人のビルマ兵のうち帰投したのは7,000人のみであり[12]、残った徴募兵の多くも逃亡した。一方でイギリス軍も一定程度の被害を出していた。イギリスは将兵40人と兵卒500人を失い、さらに多数が病気に倒れていた[19]

イギリス軍の進撃

バンドゥーラはラングーン郊外のダヌビュー英語版に退却した(ダヌビューの戦い英語版)。当時の兵力は10,000人であったが、その練度は精鋭兵からほとんど武装していない徴募兵までばらばらであった。ビルマ軍は土手沿いに長さ1.6km、高さ4.6mの防柵を設けた[18]。1825年3月、イギリス兵4,000人が砲艇の支援を受けながらダヌビューに進撃した。最初の攻撃は失敗し、バンドゥーラは歩兵・騎兵および戦象17頭を率いて反撃した。しかし戦象はロケットにひるみ、騎馬隊も砲撃により前進を阻まれた[18]。4月1日にビルマ軍は総攻撃にかかり、ダヌビューのビルマ軍陣列をロケットと大口径砲で砲撃した。バンドゥーラはビルマ軍の士気を維持するため黄金の傘をさし、すべての勲章を身につけて砦を歩き回っていたが、迫撃砲を身に受けて戦死した。バンドゥーラの死後、ビルマ軍はダヌビューから撤退した[18]

また、1825年2月1日にはジョゼフ・ワントン・モリソン英語版ら11,000人が砲艇・巡洋艦の支援のもとアラカンに向かい、ウー・サらと戦った。3月29日にはムラウウーへの攻撃がはじまり、4月1日にウー・サはアラカンから撤退した[6]。1825年9月にはビルマとイギリスの間での和平交渉がはじまった。イギリスは200万ポンドの賠償金支払いおよびアラカン・アッサム・マニプル・テナセリムの割譲を迫り、ビルマはこれを拒絶した。10月初旬に和平交渉は決裂した[20]

11月、ビルマ軍はシャン諸侯の援助を得ながらプローム(ピイ)を包囲し、ラングーンとの連絡を断ち切った。しかし、イギリス軍の火力に押し負け、この包囲戦も失敗に終わった(プロームの戦い英語版[20]。キャンベルは12月1日にヨーロッパ人兵2,500人とセポイ1,500人、砲艇によりプローム郊外のビルマ軍陣地を攻撃し、同2日には指揮官のマハー・ネーミョー英語版が戦死した。5日までにイギリス軍はプロームのビルマ軍を一掃した[21]。1826年2月にはイギリス軍によりバガンが占領された[1]

終戦

1826年2月24日、キャンベルとレーガイン(Legaing)総督マハー・ミンフラチョーティン(Maha Min Hla Kyaw Htin)により、ヤンダボー条約英語版が結ばれた[22]。この条約の文面は以下の通りであった[5][11]。賠償金の1回目の支払いは即時、2回目は100日以内と定められ、2回目の支払いが終わるまでイギリス軍はラングーンに駐留しつづけることが決定された[11]

  1. ビルマはイギリスにアッサム・マニプル・アラカン・サルウィン川以南のテナセリムを割譲すること
  2. カチャールおよびジャインティアに介入しないこと
  3. 賠償金100万スターリング・ポンドを4回に分けて支払うこと
  4. 両国の外交代表を交換すること
  5. 通商条約を結ぶこと

ビルマにとって、この条約は著しい屈辱であるとともに、長期にわたる財政的重荷となった[23]。100万ポンドという賠償額は当時のヨーロッパにおいても巨額なものであり、王国の財政は破綻した。この賠償額は、1826年当時の上ビルマの農民ひとりの生活費83万年分に相当した[11]

一方で、イギリスはこの戦争に40,000人を動員し、うち15,000人を死亡させていた[24][25]。戦死者のほとんど(70%)は熱帯病によるものであったとはいえ[26]、第1マドラスヨーロッパ人連隊(The 1st Madras European Regiment)のフレデリック・ダブトン(Frederick Doveton)大尉は「本件において、従軍兵力および戦闘期間に対する戦死傷者の量は(ナポレオン戦争の)タラベラ英語版ワーテルローにおける華々しくも血なまぐさい日々と比肩し得る」と述べている[19]。イギリス領インド帝国はこの戦争のために1300万ポンドを出費しており、インドに経済危機をもたらした。1833年までにベンガルの代理商会英語版は倒産し、東インド会社に残されていた中国との交易独占権といった特権も失われた[27]

バジードー王は敗戦の屈辱もあり精神錯乱を起こし、弟のターヤーワディ英語版が後を継いだ[28]。ターヤーワディはこの条約を拒否し、インド総督の派遣した駐箚官もイギリスの代表とはみなさなかった。両国関係は険悪なまま続き、1852年には第二次英緬戦争がはじまる[29]

出典

  1. ^ a b c d 石井 & 桜井 1999, pp. 295–296.
  2. ^ a b c Thant Myint-U, The Making of Modern Burma, pp. 18–19
  3. ^ a b Thant Myint-U (2006). The River of Lost Footsteps – Histories of Burma. Farrar, Straus and Giroux. pp. 113, 125–127. ISBN 978-0-374-16342-6 
  4. ^ The Somerset Light Infantry: A History”. 2016年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月1日閲覧。
  5. ^ a b Phayre, Lt. Gen. Sir Arthur P. (1967). History of Burma (2nd ed.). London: Sunil Gupta. pp. 236–237 
  6. ^ a b Lt. Gen. Sir Arthur P. Phayre (1967). History of Burma (2nd ed.). London: Susil Gupta. pp. 236–247 
  7. ^ GE Harvey (1925). “Notes: Fire-Arms”. History of Burma. London: Frank Cass & Co. Ltd.. p. 341 
  8. ^ “Myawaddy Mingyi U Sa”. Yangon: Working People's Daily. (1988年5月16日). オリジナルの2016年3月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160303184719/http://www.burmalibrary.org/docs3/BPS88-05.pdf 2011年12月9日閲覧。 
  9. ^ Maung Htin Aung (1967). A History of Burma. New York and London: Cambridge University Press. https://archive.org/details/historyofburma00htin 
  10. ^ India Intelligence Branch Subject (1911). Frontier And Overseas Expeditions From India. India Intelligence Branch. pp. 13 
  11. ^ a b c d Maung Htin Aung (1967). A History of Burma. New York and London: Cambridge University Press. pp. 212, 214–215. https://archive.org/details/historyofburma00htin 
  12. ^ a b c Htin Aung, pp. 212–214
  13. ^ Phayre, pp. 236–237
  14. ^ Myint-U, River of Lost Footsteps, pp. 114–117
  15. ^ a b Perrett, pp. 176–177
  16. ^ a b Terrance Blackburn, The British Humiliation of Burma, pp. 32
  17. ^ Maung Maung Tin, Konbaung Set Yazawin, pp. 118–122
  18. ^ a b c d e Myint-U, River of Lost Footsteps, pp. 118–122
  19. ^ a b Doveton, Frederick (1852). Reminiscences of the Burmese War in 1824–5–6. New York: Cambridge. pp. 279, 356 
  20. ^ a b Thant Myint-U (2006). The River of Lost Footsteps – Histories of Burma. Farrar, Straus and Giroux. pp. 123–124. ISBN 978-0-374-16342-6 
  21. ^ Lt. Gen. Sir Arthur P. Phayre (1967). History of Burma (2nd ed.). London: Sunil Gupta. pp. 252–254 
  22. ^ Thant Myint-U (2001). The Making of Modern Burma. Cambridge University Press. p. 20. ISBN 978-0-521-79914-0. https://archive.org/details/makingmodernburm00myin 
  23. ^ Thant Myint-U (2006). The River of Lost Footsteps – Histories of Burma. Farrar, Straus and Giroux. pp. 125–127. ISBN 978-0-374-16342-6 
  24. ^ Chopra, P.N. (2003). A Comprehensive History of India, Volume 3. India: Sterling Publishers Pvt. Ltd. p. 79. ISBN 8120725069.
  25. ^ Cooler, Richard M. (1977). British romantic views of the first Anglo-Burmese war, 1824–1826. Decalb: Northern Illinois University. pp. 8 
  26. ^ Robertson, Thomas Campbell (1853). Political incidents of the First Burmese War. Harvard University: Richard Bentley. p. 252.
  27. ^ Webster, Anthony (1998). Gentlemen Capitalists: British Imperialism in South East Asia, 1770–1890. I.B. Tauris. pp. 142–145. ISBN 978-1-86064-171-8 
  28. ^ 大野徹「バジードー」『改訂新版 世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BCコトバンクより2025年10月3日閲覧 
  29. ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 297.

参考文献




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