磯辺サタ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/06 02:30 UTC 版)
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| 基本情報 | ||||||||||||||||||
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| 生年月日 | 1943年12月19日 | |||||||||||||||||
| 出身地 | 千葉県香取郡神崎町 | |||||||||||||||||
| 没年月日 | 2016年12月18日(72歳没) | |||||||||||||||||
| ラテン文字 | Sata Isobe | |||||||||||||||||
| 身長 | 173cm | |||||||||||||||||
| 体重 | 59kg | |||||||||||||||||
| 選手情報 | ||||||||||||||||||
| ポジション | レフト | |||||||||||||||||
| ブロック | ||||||||||||||||||
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磯辺 サタ(いそべ さた、結婚後の姓は丸山[1]、1943年12月19日 - 2016年12月18日)は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピック金メダリスト。東洋の魔女[2]のメンバー。
来歴
幼少の頃に両親を亡くし、千葉県香取郡神崎町にある叔母の家で育つ。神崎町立神崎中学校時代に学級担任に勧められてバレーボールを始める[3]。卒業後、一時日紡貝塚(のちのユニチカ・フェニックス)に籍を置いたが、翌年四天王寺高校に入学した。高校卒業後、再び日紡貝塚に入社。
1964年東京オリンピックでは日本代表チームの最年少メンバーとして出場し、「東洋の魔女」の主力メンバーとして、決勝戦で宿敵であるソ連に勝利し、金メダルを獲得した[4]。守備から攻撃にすぐ移れるように、回転レシーブを考案し実践した。1965年に引退。
1988年ソウルオリンピックに、長男の丸山繁守が背泳ぎの競泳選手として出場している[5][6]。
2016年12月18日午後10時13分、大阪市内の自宅で死去[7]。72歳没。73歳の誕生日を迎える2時間前の訃報であった。
球歴
所属チーム
脚注
- ^ 東洋の魔女 磯辺サタさん(72歳)逝去
- ^ Remembering the Oriental Witches: Sports, Gender and Shōwa Nostalgia in the NHK Narratives of the Tokyo Olympics / Oxford University Press
- ^ VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌)1962年4月号 48ページ
- ^ “「東洋の魔女」磯辺サタ、鬼の大松が取り持った縁 - スポーツ : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2024年12月9日閲覧。
- ^ “20年夏季五輪:東京決定 「東洋の魔女」丸山さん あの青春をもう一度「6人で楽しんで観戦したい」”. 毎日jp (毎日新聞社). (2013年9月10日) 2013年11月17日閲覧。
- ^ 【大阪の20世紀】(31)回転レシーブ“東洋の魔女” 世界に興奮と感動(6-6ページ) - MSN産経west 2011.10.20
- ^ “【訃報】東京オリンピック 金メダリスト 磯辺サタさん(72歳)逝去”. 日本バレーボール協会 (2016年12月19日). 2017年7月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月18日閲覧。
外部リンク
- 磯辺サタ - 国際オリンピック委員会
- 磯辺サタ - オリンピックチャンネル
- 磯辺サタ - Olympedia
- 磯辺サタ - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
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