生駒甚兵衛とは? わかりやすく解説

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生駒甚兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/06 15:23 UTC 版)

いこま じんべえ
生駒 甚兵衛
神明社にある生駒甚兵衛碑
生誕1806年
三河国碧海郡一ツ木村
(現・愛知県刈谷市一ツ木町
死没1861年5月20日
職業庄屋

生駒 甚兵衛(いこま じんべえ、文化3年(1806年) - 文久元年(1861年5月20日)は、三河国碧海郡一ツ木村(現・愛知県刈谷市一ツ木町)出身の庄屋

経歴

庄屋として

生駒甚兵衛碑がある神明社

文化3年(1806年)、三河国碧海郡一ツ木村(現・愛知県刈谷市一ツ木町)に生まれた[1]。生駒家の初代は享保年間に分家した新平(権兵衛)、2代は久蔵、3代は為七であり、甚兵衛は4代に当たる[2]文政11年(1828年)に組頭となり、天保2年(1832年)に庄屋職に就いた[2]

一ツ木村には東海道助郷役宿場町周辺の村々に課された夫役)が課されており、耕地が荒廃して草木に埋もれるなどし、年貢の上納に苦しんでいた[1][2]。生駒は刈谷藩主の土井氏に何度も惨状を訴え、また江戸に赴いて助郷役の休役を嘆願した[1][2]。嘉永3年(1850年)には特旨をもって休役が許され、安政5年(1859年)3月には8人の組長から感謝状を受けた[2]

万延元年(1860年)、刈谷藩主の土井利善によって御馬役格に叙され、名字帯刀が許され、定紋付の麻上下が下賜された[1][2]。文久元年(1861年)5月20日に死去した[1]

顕彰

毎年一ツ木村では甚兵衛祭が挙行され、生駒の功績が称えられた[1][2]。1911年(明治44年)7月21日には没後50年祭が挙行され、1930年(昭和5年)には70年祭が挙行された[2]。70年祭の際には神明社(一ツ木神明社)に生駒の記念碑が建立された[1][2]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 刈谷市誌編さん委員会『刈谷市誌』刈谷市役所、1960年、p.790
  2. ^ a b c d e f g h i 宇野太一『郷土資料人物篇』富士松村、1933年、p.94

参考文献

  • 宇野太一『郷土資料人物篇』愛知県碧海郡富士松村、1933年
  • 刈谷市誌編さん委員会『刈谷市誌』刈谷市役所、1960年



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