王遂 (唐)
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王 遂(おう すい、生年不詳 - 819年)は、唐代の官僚。本貫は京兆府咸陽県[1]。
経歴
宰相の王方慶の玄孫にあたる。官吏として有能で当時に知られた。営利事業を興すのを得意とし、部下を迅速に指揮し、刑法の適用は厳格苛酷であった。鄧州刺史に累進した。銭や穀物の運用に通暁していたことから、入朝して太府寺卿となった。判度支の潘孟陽と合わず、互いに言い争った。王遂が西北供軍使となり、営田の不便を言上すると、潘孟陽と非難しあい、おのおの憲宗との謁見を求めた。憲宗は怒って、両者ともに会おうとせず、王遂は柳州刺史として出された。淮西の呉元済の乱が起こると、唐の朝廷は江淮の賦税を集めるために、強力な手腕を持つ人物が必要とした[2][3]。元和11年(816年)、王遂は宣州刺史・宣歙観察使として任用された[4]。元和12年(817年)、呉元済の乱が鎮圧されると、王遂は召還されて光禄寺卿に任じられ、淄青行営諸軍糧料使をつとめた。検校左散騎常侍に転じ、御史大夫を兼ねた[5][3]。
王遂は出征する兵のための糧食を1年あたり300万石を調達したため、憲宗に有能とみなされた[5][3]。元和14年(819年)3月、王遂は沂州刺史・沂海兗密都団練観察等使となった[6]。
王遂は性格が怒りっぽく、沂州の将兵を「反虜」といって罵ったことから、人々の怒りを買った。7月、王遂が宴会のため人を集めたところ、牙将の王弁が人々を扇動し、王遂は判官の張敦実や李矩甫らとともに殺害された。曹華が代わって沂州に赴任してくると、王弁らは捕殺された[5][7]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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