潘孟陽とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 潘孟陽の意味・解説 

潘孟陽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/10 07:07 UTC 版)

潘 孟陽(はん もうよう、生年不詳 - 815年)は、唐代官僚

経歴

礼部侍郎の潘炎と劉氏(劉晏の娘)のあいだの子として生まれた。父の蔭官により任用され、博学宏辞科に登第し、渭南県尉に任じられた。殿中侍御史に累進し、降格して太子司議郎となった。兵部郎中に累進した[1][2]

貞元末年、孟陽は王紹の推薦により、権知戸部侍郎に抜擢された。永貞元年(805年)、順宗が譲位して憲宗が即位し、王叔文が処刑されると、杜佑が判度支をつとめ、孟陽は王叔文に代わって杜佑を補佐した。江淮の財政の節減を憲宗に命じられ、塩鉄転運副使を加えられた。しかし孟陽は数百人の従者を連れ、婦女とともに飲み明かし、塩鉄転運院で広く収賄して、人望を失った。罷免されて大理寺卿となった。元和3年(808年)、華州刺史として出向し、梓州刺史・剣南東川節度使に転じた。武元衡と旧交があり、武元衡が宰相となると、孟陽は召還されて戸部侍郎・判度支となり、京北五城営田使を兼ね、和糴使の韓重華はその下で営田副使をつとめた。孟陽は太府寺卿の王遂と合わず、営田をめぐって論争して、憲宗の怒りを買い、罷免されて左散騎常侍となった。元和4年(809年)、戸部侍郎に復帰した[3][4]

孟陽は豪放な性格で細かいことに拘らなかった。孟陽の楽游原の邸宅は広壮華麗なものだったが、憲宗にお忍びでその邸宅の広さを見られると、孟陽は咎めを恐れて邸宅の工事を完成させなかった。宴会を好み、公卿朝士の多くと遊んだが、孟陽に怒りを示す者も少なくなかった。まもなく孟陽は中風にかかって、左散騎常侍となった。元和10年(815年)8月、死去した。兵部尚書の位を追贈された。は康といった[5][6]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 4239.
  2. ^ 新唐書 1975, p. 4972.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4239–4240.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 4972–4973.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 4240.
  6. ^ 新唐書 1975, p. 4973.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  潘孟陽のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「潘孟陽」の関連用語

1
4% |||||

2
4% |||||

潘孟陽のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



潘孟陽のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの潘孟陽 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS