王穆討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)
同月、王穆は朋党である敦煌出身の索嘏を敦煌郡太守に任じていたが、その威名を妬んで対立するようになり、自ら兵を率いてこれを攻撃した。呂光はこれを聞いて「二虜が互いに攻め合っている。これであれば生け捕りと出来よう」と宣言した。諸将はみなこれに反対したが、呂光は「乱を取り亡を侮るは、武の善経である。連戦の労を恐れて永逸の機を逃してはならぬ」と答えた。そして自ら歩騎2万を率いて酒泉へ侵攻し、これを降した。さらに涼興へ進出すると、王穆は兵を率いて東へ逃れようとしたが、道中でその軍勢は散じてしまい、王穆は単騎で逃走した。騂馬県令郭文はこれを討ち取り、その首を呂光の下へ送った。
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