玉嬪
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玉嬪(ぎょくひん、道光23年7月19日(1843年8月14日) - 同治元年11月16日(1863年1月5日))は咸豊帝の妃嬪。姓は葉赫那拉氏(星懇達爾漢系)。満洲正白旗出身。同様に咸豊帝の妃嬪である璹嬪は実の姉。
生涯
道光23年(1843年)7月19日生まれ。
出自
- 曾祖父(高祖父):兵部尚書・那清安。
- 祖父:員外郎・全志。
- 父:員外郎・桂祥。
- 母:舒舒覺羅氏(嫡母)。
出身は葉赫国主系の葉赫那拉氏であり、 同族に葉赫貝勒・ギンタイシがいるが、一族は清初には普通の旗人兵丁に過ぎず、康熙・雍正時代にようやく台頭した。 一族は高級官僚・科挙世家となったが、他の世家と婚姻を結ぶことが多かった。 姉妹の一人は、盛京将軍・崇実の息子である員外郎・華毓に嫁ぐ。
宮廷での経歴
咸豊8年(1858年)2月3日
外八旗の選秀(妃嬪選び)で玉貴人に封される。
同年3月25日、祺嬪とともに本家から直接円明園へ入る。直前に、姉の璹貴人の宮中待遇が格下げされていて、常在と同じ待遇にされていたが、玉貴人が入宮すると、璹貴人の待遇は元に戻った。
咸豊10年(1860年)8月、英仏連合軍の侵攻(アロー戦争)により、咸豊帝は熱河・承徳避暑山荘へ避難。璹貴人・玉貴人の姉妹も随行した。
同年12月29日(旧暦臘月)、随行した妃嬪たちへ新年の恩賜があり、姉妹それぞれ銀20両を賜る。
咸豊11年(1861年)7月、咸豊帝の崩御後、即位した同治帝が妃嬪を尊封。景仁宮の璹貴人と儲秀宮の玉貴人は「嬪」に昇格。咸豊帝の妃嬪は東六宮の永和宮・景仁宮・承乾宮に一時滞在。璹嬪と玉嬪は、麗皇貴妃とともに永和宮に居住。
同年10月10日、皇考玉嬪に尊封される。
同治元年(1862年)2月、内務府が道光帝・咸豊帝の妃嬪たちの親族との面会(会親)を手配。 2月13日、璹嬪と玉嬪が親族と面会。面会時間は早朝(卯時)から夕方(酉時)までで、親族は蒼震門から出入りした。
同年11月16日、正式な「玉嬪」への尊封は未完了のまま、20歳で病死した。 そのため、尊封手続きは中止された。
同治4年(1865年)9月25日、玉嬪の金棺が東陵・定陵妃園寝に埋葬。
伝記資料
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