璹嬪
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璹嬪(しゅうひん、道光20年2月20日(1840年2月20日) - 同治13年3月24日(1874年3月24日))は咸豊帝の妃嬪。姓は葉赫那拉氏(星懇達爾漢系)。満洲正白旗出身。同様に咸豊帝の妃嬪である玉嬪は実の妹。
生涯
道光20年(1840年)2月20日、子の刻に誕生。
宮中での生活
咸豊5年(1855年)2月10日、「正白旗満洲・員外郎 桂祥の娘・那拉氏」が「𤩈貴人」に封じられる。
同日に、「正白旗満洲・主事 全文の娘・那拉氏」が「璷貴人」に封じられる。
𤩈貴人には「嬪銜(嬪相当の待遇)」が与えられたため、 食事・石炭・蝋燭などの支給が嬪と同じ待遇となる。
璷貴人の待遇は通常の貴人のままだった。
咸豊5年(1855年)3月16日、𤩈貴人・璷貴人が正式に入宮。 二人は懿嬪(後の西太后)とともに儲秀宮に住む。
同年3月30日、咸豊帝は、𤩈貴人に「毓慶宮」に収蔵されていた《説文字原·六書正譌》を下賜。
咸豊6年(1856年)3月23日、懿嬪が大阿哥・載淳(後の同治帝)を出産。
4月23日、𤩈貴人の母が、大阿哥の満月祝いの際に、勝手に献上品を差し出す。 咸豊帝は激怒し、献上品を突き返すよう命じる。
11月10日、咸豊帝の命により、「𤩈貴人」の封号表記が「璹貴人」に改められる。
咸豊7年(1857年)11月12日、璹貴人の食事・石炭・蝋燭の支給が「常在」と同じ待遇に格下げされる。
咸豊8年(1858年)2月3日、璹貴人の妹が「玉貴人」に封じられる。
2月4日、璹貴人の食事・石炭・蝋燭の支給が「貴人」の待遇に戻り、通常通りの扱いとなる。
咸豊11年(1861年)10月10日、咸豊帝の崩御後、即位した同治帝が璹貴人を「璹嬪」に尊封。妹の玉貴人も「玉嬪」に尊封された。璹嬪の満文表記は「wesihungge」(尊貴・繁栄の意)。
同治元年(1862年)2月、内務府が道光帝・咸豊帝の妃嬪たちの親族との面会(会親)を手配。 2月13日、璹嬪と玉嬪が親族と面会。面会時間は早朝(卯時)から夕方(酉時)までで、親族は蒼震門から出入りした。
同治13年(1874年)3月24日、璹嬪が死去。 葬儀は、同治8年に亡くなった容嬪と同じ規模で行われた。
作品
翁同龢が著した『翁文恭公日記不分巻』には、「顕廟(咸豊帝)位下の璹嬪は、大きな字を書くことができる。彼女は全師の姪孫であり、今年逝去し、今月奉移される」 と記されており、璹嬪は大字を書くことが得意だったことがわかる。
現在確認されている彼女の作品は以下の通り:
- 《璹貴人楷書五言聯》(北京故宮博物院所蔵)
家族
- 高祖父:松齢
- 官位:江南淮揚道
- 妻:瓜爾佳氏、覺羅氏、喏羅氏
- 妾:孫氏、范氏
- 祖父:全志
- 官位:員外郎
- 妻:二等男爵・鄂彌善の長女、必祿氏
- 父:桂祥
- 道光23年の挙人
- 官位:員外郎
- 妻:欽天監五官・常興の娘、舒舒覚羅氏
- 兄弟:詺鼎、詺彝、詺鍾、詺牖
- 姉妹:玉嬪(咸豊帝の妃嬪)、華毓(盛京将軍・崇実の子)の妻
伝記資料
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