猿飛仁助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 06:05 UTC 版)
『審訓清正実記』には「木下藤吉郎(豊臣秀吉)が金ヶ崎の戦いの退き口で殿(しんがり)を務め、浅井・朝倉軍の追撃から逃げて京に至る「朽木越え」の際に、猿飛仁助が率いる3000名の盗賊に襲われようとしていた」とある。既に藤吉郎の軍は戦う気力さえなかったが、蜂須賀小六の配下である日比六大夫(日比野六大夫)が猿飛と旧知の仲だったため、この時、猿飛に盗賊をやめて藤吉郎配下へ加わり一緒に天下を取るよう誘った。猿飛仁助はこの説得を受け入れて藤吉郎の家来となり、それ以来、猿飛一族は太閤秀吉の天下取りの陰の力となったとされる。
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