海野氏幸とは? わかりやすく解説

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海野氏幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/23 10:54 UTC 版)

 
海野 氏幸
時代 室町時代後期
生誕 不明
死没 不明
改名 亀千代丸→氏幸
官位 信濃守
幕府 室町幕府
氏族 海野氏
父母 海野持幸
海野幸棟
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海野 氏幸(うんの うじゆき)は、室町時代後期の武将、信濃国人・海野氏当主。幼名は亀千代丸。父は海野持幸、子は幸棟。孫は海野氏最後の当主・棟綱

概要

海野一族は、小県郡佐久郡を拠点とした信濃の有力国人衆滋野三家(海野、根津望月)の嫡流であり、その支族は筑摩郡駿河などに分かれて繁栄していた。室町時代には、信濃守護小笠原長秀を他の国人と連携して追放し、結城合戦では一族を引き連れて武功を挙げるなど、勢威を保っていた。

康正3年(1457年)7月、諏訪大社上社における御射山頭役に就任し、「海野亀千代丸、代官深井治光」として三貫三百文を担う[1]。その後、応仁の乱により畿内が戦乱状態に陥ると、信濃でも国人同士による抗争が展開され、小県郡でも海野氏幸と村上政清の抗争が起こる。

寛正4年(1463年)には氏幸の名で、初めて諏訪御射山頭役を務める。

応仁元年(1467年)10月18日には村上政清と合戦したが敗れ(海野大乱)、所領を失う[2]。同年の12月14日には、氏幸の一門である岩下満幸が小県郡海野にて村上軍に敗れ、討死した。氏幸は村上氏の侵攻で劣勢を余儀なくされ、応仁2年(1468年)では村上方が海野氏の千葉城を攻め囲み、詰口を占領している[3]

一連の合戦で、氏幸に従っていた小県郡北部の曲尾氏や横尾氏、半田氏らが離反したといい、海野領は衰退が始まる。

文明元年(1469年)の御射山頭役では本貫の海野郷が列したが、氏幸の名は記されておらず、代官として深井滋満(滋光)が名を列するのみとなっている。

政清の侵攻に苦慮しつつも氏幸は領国を保ったようで、文明7年(1475年)には諏訪社に三十貫文を頭役として納めた。

文明12年(1480年)、御射山頭役に列する[4]

文明14年(1482年)には諏訪社檀那として、守矢満実に太刀二振りを贈った[5]。文明19年(1487年)、延徳2年(1490年)にも諏訪御射山頭役を務めた。

氏幸の代では、諏訪社の頭役に度々就任するなど、代々の海野氏当主が行ってきた活動を踏襲することは出来たものの、村上氏との抗争で劣勢に立たされ、勢力を縮小させた。氏幸の代で、村上氏との抗争に敗れたことが勢力弱体化の一因となり、後の天文10年(1541年)海野平の戦いに繋がることとなる。

「参考海野歴代記」では、応仁元年(1467年)海野大乱にて海野氏幸が村上氏に敗死させられたとしているが、戦後も氏幸は活動しているため誤りである。しかし小県東部町には、応仁元年十月十八日に死去した人物の宝篋印塔や戒名が残されており[6]、村上氏との抗争が、海野氏の有力者に戦死者が出るほどの激戦であったことを物語る。

脚注

  1. ^ 諏訪御符礼之古書 康正三年諏訪大社御射山頭役
  2. ^ 諏訪御符礼古書、参考海野太平記
  3. ^ 「諏訪御符礼之古書」応仁2年四月八日条
  4. ^ 信濃史料 巻九
  5. ^ 守矢満実書留 四月十六・十七日条
  6. ^ 信濃史料応仁元年十月条、開善寺記録



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