海野幸棟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/26 11:39 UTC 版)
海野 幸棟(うんの ゆきむね)は、戦国時代の武将。信濃国衆・海野氏の当主である。父は、北信濃に広大な版図を有する信濃村上氏と抗争した海野氏幸。子は海野氏最後の当主・海野棟綱、次男に武石幸邦。
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 大永4年(1524年) |
別名 | 海野信濃守 |
戒名 | 瑞泉院殿器山大居士 |
墓所 | 興善寺 |
官位 | 称・信濃守 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 滋野三家流海野氏 |
父母 | 海野氏幸 |
妻 | 禅量大禅尼 |
子 | 海野棟綱、武石幸邦? |
概要
幸棟の父・氏幸は小県郡の有力国人で、小県・佐久へ勢力を伸ばしつつあった川中島四郡の大勢力・村上頼清と抗争するも敗北し劣勢に立たされ、滅亡こそ免れたが、海野氏は弱体化しつつあった。
延徳2年(1490年)の諏訪社御射山頭役には父・氏幸が就いており[1]、幸棟の家督継承は15世紀末から16世紀初頭のことであったと思われる。
永正2年(1505年)、幸棟の妻・禅量大禅尼が没したため、これを弔うべく永正3年(1506年)に堂宇を築造した[2]。この堂宇が、興善寺(東御市)であるとされる。その一方で、小県武石に次男の幸邦が入って武石(石井)氏を名乗るなど、勢力拡大にも余念は無かった[3]。
永正10年(1513年)、山内上杉氏と高梨氏・越後長尾氏が対立すると、山内上杉を援助するため、信濃国衆と共に越後へ進出しようと試みたという。このように、戦国期の海野氏は、隣国上野国の大勢力・山内上杉氏に接近を図り、領国を維持していた。
この方策は、のちに海野棟綱が武田信虎らに敗北し上野に逃れた際、棟綱を庇護した山内上杉憲政が、海野領を奪還するべく信濃出兵を行っており、一定の効果を得ている。
大永4年(1524年)に死去し、興善寺に葬られた。戒名は瑞泉院殿器山道天居士。
跡を継いだ海野棟綱は山内上杉氏を頼りつつ勢力維持に努めるも、天文10年(1541年)海野平の戦いで村上・諏訪・甲斐武田の三氏に敗北、海野幸義らが討死し、棟綱は一族と共に上野国へと逃れ、海野氏は滅亡した(のち武田信玄子・海野信親が再興)。
その後、上杉憲政が、棟綱の旧領を回復するべく信濃への出兵を開始する。
憲政の信濃出兵は、武田氏の信濃領に打撃を与え、親山内上杉・反後北条であった武田氏の路線を大きく転換させることとなる。
また、武田の盟友だった諏訪頼重が憲政と勝手な領土分割を行ったことは、武田晴信が諏訪氏を攻める大義名分となり、晴信による信濃経略の足掛かりとなる。 このように、上杉憲政による海野領奪還作戦は、信濃のみならず、武田・後北条の戦国史に大きく影響を与えた。
関連項目
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