津山往来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:59 UTC 版)
江戸時代になると、現在の国道179号の原型となる津山往来 が整備されるようになった。倉吉から天神川の本流 に沿ってさかのぼり、いくつかの川が合流する穴鴨村(現在の三朝町の一部)に宿場が設けられた。 穴鴨からは川筋に沿っていくつかの道に分かれるが、そのうち「津山往来」としては3つのルートが拓かれた。西から順に、「田代越」のルート、「人形仙越」のルート、「打札越」のルートがあるが、現代の「人形峠」に相当するのは一番東の「打札越」のルートである。 田代越ルートは、天神川支流の田代川沿いに若杉山の北麓から田代越(田代峠、別名「長谷越」)を越えていくものである。 人形仙越は、加谷川沿いに人形仙の北麓から人形仙越を越えていくものである。このルートは津山への最短距離で、江戸時代には最も往来が多かったが、極めて険路で人が通るのがやっとだった。特に鳥取県側は急坂で「胸突道」と渾名されていた。 打札越は、穴鴨から加谷川をさかのぼって打札越(現在の人形峠)を越えていくものである。打札越は牛馬の通行も可能だったが、遠回りであるため脇道扱いだった。
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