毫摂寺 (宝塚市)とは? わかりやすく解説

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毫摂寺 (宝塚市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/13 05:02 UTC 版)

毫摂寺
所在地 兵庫県宝塚市小浜5-5-12
位置 北緯34度48分24秒 東経135度21分52秒 / 北緯34.80667度 東経135.36444度 / 34.80667; 135.36444
山号 出雲路山
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 明応年間(15世紀末)
開基 善秀
別称 小浜御坊
法人番号 3140005018624
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毫摂寺(ごうしょうじ)は、兵庫県宝塚市小浜にある浄土真宗本願寺派の寺院。小浜御坊とも称され、寺内町として発展した小浜の中心であった。山号は出雲路山。本尊は阿弥陀如来

歴史

  • 本願寺三世覚如に帰依した乗専が丹波国六人部(福知山市)の天台宗寺院を改宗して毫摂寺と称し、京都の今出川に移して覚如の末子・善入が住職となった。
  • だが今出川の毫摂寺はその後戦乱で荒廃し、やがて越前国山本荘(現在の福井県鯖江市)の證誠寺に寄寓し、後に真宗出雲路派本山毫摂寺となる。
  • 善入の末裔の善秀が明応年間(15世紀末)に小浜荘を開き、この地にも毫摂寺を建立した[1]
  • その後寺内町として発達した小浜は、交通の要衝で武将の往来も多く、豊臣秀吉有馬湯治の際千利休を伴い毫摂寺に宿泊し、茶を点てたという。また、秀吉の養子・秀次も有馬湯治の際に毫摂寺に宿泊し、寺の次女亀姫を見初めて側室(小浜の局)としたが、秀次が失脚・切腹すると、妻子や他の側室とともに亀姫も三条河原で処刑され、毫摂寺も焼き打ちにあう。
  • 江戸時代には小浜宿場町として復興し、毫摂寺は八本松の名所として知られるようになった[2]
  • 明治に入り浄土真宗本願寺派に属することとなる。

本堂・伽藍

  • 本堂は江戸時代末期の建立。

所在地・交通

脚注・参考文献

  1. ^ 摂陽群談』1701年、岡田徯志編纂
  2. ^ 摂津名所図繪』(1798年)
  • 『市史研究紀要たからづか』(宝塚市教育委員会)
  • 広報たからづか』(宝塚市)

関連項目




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