武崇訓
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武 崇訓(ぶ すうくん、683年 - 707年)は、唐代の外戚。武周の皇族。本貫は并州文水県[1]。
経歴
武三思の次男として生まれた。武周のとき、高陽郡王に封じられた。長安年間、中宗の娘の安楽公主を妻に迎えた。のちに左衛中郎将に任じられた。神龍元年(705年)、駙馬都尉となり、太常寺卿に転じ、左衛将軍を兼ねた。酆国公に降封され、ほどなく鎬国公に徙封された。武三思の命を受けて、安楽公主を通じて敬暉らを誣告した。神龍2年(706年)、太子賓客を兼ね、左衛将軍をつとめた。ときに武三思が節愍太子李重俊の廃位を図った。神龍3年(707年)7月、李重俊が左羽林軍大将軍の李多祚らを率いて、左右の羽林兵を動員し、武三思と崇訓をその邸で殺害した。李重俊が敗死すると、崇訓は開府儀同三司の位を追贈され、魯王に追封された。諡は忠といった[2][3]。景龍4年(710年)6月、睿宗が即位すると、崇訓の官爵は削られた[4]。武三思父子には逆節ありとして、棺を壊されて遺体を暴かれ、墳墓は平らにされた[5][6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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