楚鼎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 09:30 UTC 版)
楚 鼎(そ てい、生没年不詳)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。寿春府蒙城県の出身。
生涯
楚鼎の父の楚㺹は金朝に仕えて鎮国上将軍・寿春府防禦使に任命された人物であったが、金朝の滅亡後、南宋に亡命して宿州の守護を命じられた。1239年(己亥)には宿州をあげてモンゴルに降り、アジュルにそのまま宿州を守るよう命じられたが、南宋軍の逆襲を受けて戦死した。楚鼎はこの時南宋軍の虜囚となり、鎮江府で14年にわたって拘留された後、ようやく釈放されたという[1]。
1275年(至元12年)、モンゴル軍が長江を渡って南宋領への侵攻を始めると、楚鼎は知太平州の孟之縉とともにモンゴル軍に降った。投降直後、楚鼎は寧国府守将の孫世賢を説得して降らせる功績を挙げ、これにより管軍総管・懐遠大将軍に任命された。1276年(至元13年)、李漢英と李世達らが反乱を起こして旌徳県・太平県が占領されたときには、楚鼎は兀忽納とともにこれを平定した。1278年(至元15年)には始めて符印を受けている[2]。
1281年(至元18年)、第二次日本出兵(弘安の役)が始まると、楚鼎は千人あまりを率いて左丞范文虎の指揮下に入った。しかし楚鼎の船団は大風に遭って船が壊れ、楚鼎は三昼夜漂流した末にようやく范文虎と合流したが、散り散りとなった兵達を集めて帰還したという[3]。
脚注
- ^ 『元史』巻166列伝53楚鼎伝,「楚鼎、安豊蒙城人。父㺹、仕金為鎮国上将軍・寿春府防禦使。金亡、帰宋、命守宿州。歳己亥、以州降、阿朮魯命㺹守之。宋兵来攻宿州、城破、㺹死之。宋人囚鼎於鎮江府、凡十有四年、会赦免」
- ^ 『元史』巻166列伝53楚鼎伝,「至元十二年、師渡江、鼎従知太平州孟之縉降。行省遣鼎諭寧国府守将孫世賢、下之、承制授鼎管軍総管、制下、加懐遠大将軍、領兵鎮寧国。平建平・南湖・広徳諸盗。鼎与権万戸孛羅台護送徽州招撫使李銓子漢英帰徽州、諭銓下其城。十三年、漢英与李世達叛、旌徳・太平両県附之、鼎与兀忽納進兵、用徽人鄭安之策、按兵而入、兵不血刃而乱定。十五年、鼎始受符印」
- ^ 『元史』巻166列伝53楚鼎伝,「十八年、東征日本、鼎率千餘人従左丞范文虎渡海、大風忽至、舟壊、鼎挾破舟板漂流三晝夜、至一山、会文虎船、因得達高麗之金州。合浦海屯駐散兵亦漂泛来集、遂領之以帰」
参考文献
- 楚鼎のページへのリンク