枝松千葉助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 06:58 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動枝松 千葉助 | |
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生誕 | 1835年8月15日 (天保6年7月21日) 足守藩(現在の岡山県) |
死没 | 1918年2月21日(82歳没) (大正7年2月21日) |
死因 | 病死 |
国籍 | ![]() |
別名 | 枝松重愼 |
職業 | 足守藩士 足守藩武道指南番 |
流派 | 起倒流柔道、楊心流柔術 北辰一刀流、田宮流居合 荻野流砲術、日置流弓術 種田流槍術 |
子供 | 枝松十郎 |
親 | 枝松十郎右衛門 |
枝松 千葉助(1835年 - 1918年)は、日本の武術家である。足守藩武道指南番を務め藩主や藩士に武芸の指導を行った。
経歴
1835年8月15日(天保6年7月21日)足守藩士の枝松十郎右衛門の長男として生まれる。父の枝松十郎右衛門は、足守藩武道指南番を務めていた。
枝松千葉助は荻野流砲術を荻野房之進、田宮流居合を石原團之進、日置流弓術を吉田兵太夫、大坪流馬術を柴崎左司馬、種田流槍術を津田作左衛門より学ぶ。また一刀流と起倒流を枝松十郎右衛門から学び全ての免許を得た[1]。
1852年(嘉永5年)藩命により江戸に上り、神田明神下の竹中元之進、竹中鉄之助より起倒流柔道、芝西久保の戸塚彦介より戸塚派楊心流、麻布永坂の森要造より北辰一刀流を学び免許皆伝を受けた。
1855年(安政2年)帰藩して足守藩の武道指南番となった。
1860年(万延元年)四国九州中国京畿各地の剣柔師範を訪問し試合を行った。
1918年2月21日(大正7年2月21日)に病没[2]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 田中誠一 編『備作人名大辞典 坤卷』備作人名大辞典刊行会、1937年
- 永山卯三郎 編『吉備郡史 下巻』名著出版、1971年
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