松平親長 (岩津家)
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松平 親長(まつだいら ちかなが)は、戦国時代の武将。三河松平氏の宗家で岩津城主(岩津松平家)。江戸時代に編纂された系譜類では松平親忠の子とされるが、実際は松平宗家2代当主松平信光の子とされる[2]。15世紀後半から16世紀初めにかけて、宗家として室町幕府政所の被官化し京都で活動していることが同時代史料で確認される人物であり、系譜上の位置や生没年等については議論がある。
注釈
- ^ 江戸時代の系譜では松平親忠の子とされるが、親長は松平信光の受領名である和泉守を名乗っていることから信光の子と考えられている。
- ^ 平野は、今橋合戦の時に滅亡か、とする[3]。
- ^ 『国史大辞典』は、15世紀末ごろ松平長親に惣領の座が移ったとする。
- ^ 田中克行・新行紀一・所理喜夫など[4]。
- ^ 平野明夫は、親長の活動を記した蜷川氏関係史料としては「親元日記」・「結番日記」・「政所賦銘引付」などを挙げ、寛正3年(1462年)の「政所内評定記録」を初見として、永正17年(1520年)3月9日付けの「三條宰相中将雑掌宛室町幕府奉行人連署奉書写」を終見とする[5]。
- ^ 「松平修理亮親長、合奉行松豊(松田豊前守頼親)、西院小泉庄沙汰人職并給田之事……」[6]。
- ^ 中田憲信「徳川家譜」によると享年79。
- ^ 永正元年十月十六日付「観修寺雑掌宛室町幕府奉行人連署奉書写」(『頭人御加判引付』)に「松平和泉守親長申」と見えるとの平野の指摘[8]。
- ^ 宗正の弟である知勝の二男
出典
- 1 松平親長 (岩津家)とは
- 2 松平親長 (岩津家)の概要
- 3 脚注
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