来迎寺 (京都府精華町)とは? わかりやすく解説

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来迎寺 (京都府精華町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/11 01:51 UTC 版)

来迎寺

本堂
所在地 京都府相楽郡精華町大字植田小字南六ノ坪59番地
位置 北緯34度45分23.58秒 東経135度47分27.85秒 / 北緯34.7565500度 東経135.7910694度 / 34.7565500; 135.7910694座標: 北緯34度45分23.58秒 東経135度47分27.85秒 / 北緯34.7565500度 東経135.7910694度 / 34.7565500; 135.7910694
山号 引接山
院号 不明
宗旨 浄土教
宗派 融通念仏宗西山浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 749年天平勝宝元年)
開基 行基
正式名 引接山來迎寺
札所等 城南西国三十三所観音霊場第18番札所
法人番号 4130005008625
来迎寺
来迎寺 (京都府)
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来迎寺(らいこうじ)[1]は、京都府相楽郡精華町にある西山浄土宗の寺である。

沿革

天平勝宝元年(749)、行基の開基と伝えられている。 江戸時代は、融通念仏宗の本山である大阪府守口市の佐太来迎寺の末寺だったため、本寺も融通念仏宗だったが、近代の廃仏毀釈を機に、知恩院の門下に入り、浄土宗に転宗した。 [2]

文化文政時代建立の旧本堂は老朽化のため、1996年(平成8年)7月25日に改築された(現地案内板より)。

文化財

境内のお千代半兵衛の墓
  • 中尊阿弥陀如来立像(本尊)- 鎌倉時代作の可能性あり。両脇侍像は江戸時代のもの。高さ76.2cm。
  • 薬師如来坐像(本堂安置)- 旧薬師堂の本尊といわれている。江戸時代の作。両脇侍像も同時に作られたといわれる。
  • 僧形坐像(本堂安置)- 江戸時代の作の可能性があり。
  • 梵鐘 - 貞享元年(1684)の銘がある。大晦日にこの鐘の響きを聞くと、借金取りも引き上げたという伝承がある。太平洋戦争中の金属類回収令によって一度回収されたが、材料として溶かされる事なく終戦を迎え、当地に戻された事から、延命鐘との別称がある。[3]
  • お千代半兵衛の墓 - 近松門左衛門作の浄瑠璃「心中宵庚申」(しんじゅうよいこうしん)の主人公、お千代が、地元の植田村(作品では上田村)の大百姓、嶋田平右衛門の二女であったことから、墓石が置かれている。[4][5]

参考文献

脚注

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  1. ^ 読み方は、下中邦彦『京都府の地名』(日本歴史地名体系第26巻、1981、平凡社)より
  2. ^ 精華町史 本文編 第五章 寺社と庶民の生活文化 第二節 寺社と講 p585(精華町史編纂委員会:1996年)
  3. ^ 梵鐘:現地案内板より
  4. ^ 精華町史 本文編 第五章 寺社と庶民の生活文化 第二節 寺社と講 pp.598-599(精華町史編纂委員会:1996年)
  5. ^ お千代半兵衛の墓:現地案内板より



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