服部正成とは? わかりやすく解説

服部正成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 00:37 UTC 版)

服部 正成(はっとり まさなり/まさしげ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての三河武将。通称は半蔵(はんぞう)で、服部半蔵の名でよく知られている。


注釈

  1. ^ 高山飛騨守の詳細は不明。高山家(甲賀五十三家)の人物あるいは鷹山飛騨守(伊賀友田郷、山尾安久の次男安峯)と同一人物であるかも不明であるが、「上島家所蔵文書」の系図に正成の父保長の従叔母にあたる女子が甲賀五十三家の高山源太左衛門に嫁いだとの記述があるため、服部家と甲賀高山家に縁戚関係が生じている可能性も存在する。
  2. ^ 千賀地保元。後の伊賀上野城代家老、藤堂采女を輩出する予野の千賀地服部家当主となる。正成の父である服部保長の兄弟という説もあり詳細は不明。
  3. ^ 上杉謙信家臣松本大学助忠繁。この女子は慶長3年会津へ移る
  4. ^ 永禄3年三河国高橋合戦にて24歳で討死。法名「道元」。高野山へ葬られる。
  5. ^ 服部中保正とは別人。元亀3年三方ヶ原合戦にて討死。法号「浄音」高野山へ葬られる。
  6. ^ 天正12年尾張国にて討死
  7. ^ 天正11年(1583年)未3月19日没、法号「芳林正春」[8]、関ヶ原の合戦まで家康に仕え後は不明とする記述も存在する[1]
  8. ^ 関ヶ原の合戦では徳川秀忠に仕え、後年没。没年不明
  9. ^ 陸奥弘前藩家老。正成の庶長子との説があるが詳細は不明である。康成は、正成の長男である正就が出生する10年前の永禄9年(1566年)に出生したといわれる。康成は徳川家、織田家に仕えた後、関ヶ原の合戦の際には大垣城攻めで津軽為信の家臣となり、以降津軽家の家老として仕えた人物である[11]。弘前藩に仕え続けた康成の家系には服部正成に連なると伝えられている[12]が、服部正成側の家譜に康成との関係を明記した箇所などがみられないため、出自についての詳細は不明である。しかし、康成が三河出身の伊賀者であったという記述や服部姓である事、正成から成の一字を、家康から康の一字と長門守の名乗りを与えられたという説などから、一般的には伊賀を由来とし三河に在住した服部氏族の一人であると考えられている。また、康成の母については正成側の家譜に名前などの記載がなく不明である。正成と正室である長坂家女子との婚姻時期は正成33歳の時である事から、それ以前に別の女子と婚姻関係にあり庶子が出生した可能性も存在するが、服部正成の主な縁戚にあたる家(服部家、長坂家、中根家、金田家等)の家譜いずれにも記録が残らず詳細が判明していない。しかし、青森県には康成の家譜や系図などが残されているため[12]、今後の研究がまたれる。
  10. ^ これが正成の初陣とされるが、弘治3年当時、家康は今川義元の人質として駿河国におり、宇土城城主であった鵜殿長持も今川方に属していたため、家康の命で正成が鵜殿長持を攻める事は情勢と合致しない。永禄5年には家康の加勢である甲賀衆280人余が上ノ郷城を夜討ちした鵜殿合戦が発生し、城主の鵜殿長持及び長照が甲賀衆に討たれた。しかし、この鵜殿合戦について記した史料中に服部正成及び服部半蔵の名は記されていない。 永禄3年(1560年)、家康(松平元康)は近江の多羅尾光俊甲賀二十一家へ戸田三郎四郎、牧野傳蔵の両名を遣わせ、今川家への加勢として甲賀衆200余人を集めた。甲賀衆は鳴海城岡部長教に預けられ、桶狭間の戦いで今川義元が討死した後も刈谷城攻めに加わっている。義元の死により家康は今川家から独立したが、上郷の鵜殿氏は今川家の家臣として残った。2年後の永禄5年(1562年)、家康は松平康親(松井忠次)に命じ上ノ郷城(宇土城)の鵜殿長持・鵜殿長照親子を攻めさせる。上ノ郷城を攻めあぐねた康親は甲賀の伴資定へ依頼して甲賀衆80人を招いた。甲賀衆は城に忍び入ると放火・攪乱し、城主の鵜殿長持は伴資定に討ち取られたという。また、「甲賀古士訴願状」などによれば、家康は永禄5年2月(1562年3月)に戸田三郎四郎と牧野傳蔵を甲賀の鵜飼孫六と伴与七郎の元に遣わせ、鵜飼党200人と伴党80人の甲賀衆が三河へ到着した。同年2月26日(1562年3月30日)(「断家譜」「朝野旧聞裒藁」では永禄5年2月4日(1562年3月8日)の夜、鵜飼孫六率いる200人の甲賀衆が城へ忍び入って放火し城内を攪乱。伴与七郎・伴太郎左衛門親子が率いる80人の甲賀衆も城内へ侵入し、城主の鵜殿長照を討ち取り、子の氏長氏次を捕らえた。この戦いで長照をはじめ鵜殿一族70人以上が甲賀衆に討ち取られ、上ノ郷城を落とした甲賀衆は付近の土呂・張崎の御堂も破壊したとされる[20][21][22][23]。 正成の初陣について、今治藩家老であり正成末裔(小服部家)の服部正弘が編纂した『今治拾遺』内『服部速水正宣家譜』[4]では正成が三河宇土城を夜襲した武功で家康から葵御紋のを褒美として贈られたと記しているが、年号や年齢についての記述はない[16][17][18]。また、桑名藩服部家の家譜[3]は当時の宇土城主の姓名を不詳とし、正成は夜討ちの際、忍びの者6、70人と共に城内へ忍び入り鯨波の声を上げると、城の近くまで来ていた家康も合わせて声を上げたという。正成は広間の近くへ松明を打ち込み、応戦した城主と広間の前で槍を合わせ首をとった功績により、盃と長さ七寸八分の秘蔵の槍を拝領し、以後この槍をもって働いたという。また、貞享書上においても、正成はこの槍を使い姉川、三方ヶ原一番槍、小坂井、高天神、横須賀などで戦ったと記される。これらの記述からも、正成が弘治3年の宇土城攻めまたは関連する合戦で何らかの戦功を挙げたのは事実と見てよい。[3][4][19]。「16歳の正成が6、70人の伊賀者を率いて宇土城に忍び入り、攪乱・放火して城主を討ち取った」等の記述は、永禄5年の鵜殿合戦で行われた甲賀衆の上ノ郷城夜襲に共通する部分も多い。鵜殿合戦は正成初陣の数年後であるため、双方の合戦が混同された可能性や正成が甲賀衆と共に鵜殿合戦に加わった可能性も生じる。しかし、正成初陣についての詳細は現在も判明していないため、今後の研究がまたれる。
  11. ^ 塙尚之・直次・直之とも称する。小笠原作右衛門興高の身内で高天神小笠原一族。興高と共に天正2年7月、高天神西退組に属して大須賀配下
  12. ^ 松下氏。今川義元に仕えた遠江頭陀寺城主。頭陀寺城には豊臣秀吉が日吉丸の頃に寄食し後に織田家臣となったという逸話がある。
  13. ^ 天正2年夏配属
  14. ^ 場所不明
  15. ^ 正成が徳川家康の危難を救った「伊賀越え」を采配した功績を称え、半蔵門と名付けられたとする説や、門の隣に正成の屋敷があったため半蔵門と呼ばれるようになったとする説もある[要出典]
  16. ^ 展示期間外非公開
  17. ^ 通常非公開、槍の拝観は要問合せ

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 伊賀上島家所蔵文書
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 伊賀国近地(服部)系譜 服部彌之助・編/武術史研究1(武芸帖社)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 桑名藩 元御家人筋并御由緒有之蒙仰御用相勤候家附服部家畧系
  4. ^ a b c d e f g h i j k 今治拾遺附録 士族一之巻 服部速水正宣家譜
  5. ^ a b c d e 貞享松平隠岐守家来服部半蔵書上
  6. ^ 伊賀史叢考/久保文武著
  7. ^ a b c d e f g 寛政重修諸家譜第552巻
  8. ^ 大樹寺過去帳抜書
  9. ^ 岡崎市 中根家文書
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n 服部半三正成武功記 附 伊予国今治藩服部氏略家系
  11. ^ 津軽藩旧記傳類(青森県文化財保護協会著みちのく双書第五集)
  12. ^ a b 「服部半蔵の子?康成の肖像画か/鯵ケ沢で展示」なびたび北東北
  13. ^ 「第35回 忍者の階級の巻 」歴史人
  14. ^ 2019岡崎市発行観光地図
  15. ^ 岡崎市郷土史料
  16. ^ a b 小学館『週刊新説戦乱の日本史 第16号 伊賀忍者影の戦い』
  17. ^ a b c d e 寛政重修諸家譜第1168巻
  18. ^ a b c d e f g 干城録
  19. ^ a b c d e f g h 貞享松平越中守家来服部半蔵書上
  20. ^ a b 朝野舊聞裒藁
  21. ^ 断家譜
  22. ^ 三河後風土記
  23. ^ 甲賀古士訴願状(乍恐以訴状言上仕候)
  24. ^ 第二回家康公検定副読本「家康公と偉業を支えた人々~徳川家臣団を中心に~」12ページ(岡崎市2011年)
  25. ^ a b c d e 大三川志
  26. ^ 伊東法師物語
  27. ^ a b c d e f g h i 伊賀者由緒書
  28. ^ 守綱記
  29. ^ 甲陽軍鑑
  30. ^ 岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲 中巻p221
  31. ^ 三河物語
  32. ^ 柏崎物語
  33. ^ a b c d 貞享伊賀者書上
  34. ^ a b 平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』(学研パブリッシング、2011年)、pp.240 - 245
  35. ^ a b c d e f g h 国朝大業廣記
  36. ^ a b c 甲斐国史
  37. ^ 寛永小尾譜
  38. ^ 貞享松平諏訪守書状
  39. ^ a b 寛永神尾譜
  40. ^ a b 武徳編年集成
  41. ^ 改正三河風土記 成島司直
  42. ^ 岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲 下巻p356
  43. ^ 新編武蔵風土記稿 巻之129
  44. ^ 慶長年中卜斎記
  45. ^ 西念寺服部半蔵墓碑
  46. ^ 史籍雑纂第三 二百頁「家傳史料第七 服部半蔵正成」
  47. ^ 姓氏家系大辞典
  48. ^ 林鐘談
  49. ^ 松山叢談 第四(豫陽叢書第七集)附録第一
  50. ^ 白洲正子『鶴川日記』
  51. ^ 本間信治『消えてゆく東京の地名』(月刊ペン社、1983年)
  52. ^ a b c d 忍秘展:初公開沖森文庫所蔵忍秘伝書のすべて:企画展(伊賀上野観光協会 編)より服部正武書写(享保2年/1717年)・服部勘助書写(万延元年/1860年)部分
  53. ^ a b c 天明由緒
  54. ^ 古今要覧稿第百二十六 器材部 武具(国書刊行会/国会図書館蔵)三百八十四頁
  55. ^ 奥瀬平七郎『忍術の歴史 伊賀流忍術のすべて』上野市観光協会


「服部正成」の続きの解説一覧




固有名詞の分類

このページでは「ウィキペディア」から服部正成を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から服部正成を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から服部正成を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「服部正成」の関連用語

服部正成のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



服部正成のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの服部正成 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS