日大生殺し事件
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日大生殺し事件(にちだいせいころしじけん)は、1935年〈昭和10年〉に母親が保険金目当てに実の息子を殺害した事件である[1]。「保険金搾取目的の殺人事件のはしり」[1]「日本初の保険金殺人事件」[2]などと評されることもあるが、実際にはこれが日本最古ではなく[2]、明治時代の保険金殺人の事例(1892年〈明治25年〉にいとこを毒殺して保険金を請求した事件[3][2])が確認されている。
太宰治が昭和17年10月に発表した「花火」という小説のモチーフとなった事件であるが、「花火」は戦時下にあるまじき作品として全文削除を命じられ、戦後昭和21年12月に「日の出前」と改題して発表された(新潮文庫「きりぎりす」奥野健男解説より)。
概要
1935年(昭和10年)11月3日、東京市本郷区弓町で、日本大学専門部歯科の3年生(長男。当時23歳)が自宅(実家)で強盗に遭い包丁で殺されるという事件が起きる。しかし、まもなく警察の調べで強盗ではなく、保険金目当てで父親(当時52歳)が主導した一家による謀殺であったことが判明する。息子を殺したのは実の母親(当時46歳)であり、長女も手伝ったことがわかった[4]。
実家は長男に生命保険を3社かけていて、合計して六万六千円ほど受け取っている(現在の貨幣価値でいうと一億数千万円、当時の大卒の初任給70円)[要出典]。当時は生命保険自体そこまで普及していなかった時代であり、妻やほかの子どもには、生命保険はかけられていなかった[要出典]。
また、父親は犯行時には樺太にいっており、11月9日に帰郷したあと長男の葬儀をしている[要出典](父親は樺太の敷香町で医院を開業していた)。
長男の他にも、長女(当時21歳)、次女(当時17歳)、次男(当時11歳)の3人の兄妹がいる[要出典]。殺害時、警察派出所に出向いたのは次女と次男[要出典]。
実母の供述
「午前2時頃、押し入ってきた20歳くらいの男が、私を起こして、金を出せと出刃包丁を突きつけてきたんです。怖くて60円を差し出したんですが、2階に寝ていた長男が騒ぎに気づいて降りてきて、男を捕まえようとしたんです。包丁を振りかざす男に、柔道2段の長男が組み付いたんです。男は長男をメッタ刺しして、60円を奪って逃げたんです」[要出典]
上記については引用に当たり匿名化した。
脚注
参考文献
- 宗宮信次「日大生殺しは死刑か?」『浮世の法律』有斐閣、1937年、162-164頁。NDLJP:1267850/90。
- 作品社編集部「日大生保険金殺人事件」『犯罪の昭和史1 戦前 昭和1年 - 昭和20年』作品社、1984年、207頁。NDLJP:12013342/107。
- 田村祐一郎「家族と保険 ―N大生殺し事件を素材として―」『生命保険論集』第148号、公益財団法人生命保険文化センター、2004年9月、1-44頁。
- 小池新 (2021年6月20日). “「母さん許して!」なぜ“我欲の鬼女”は叫ぶ我が子を出刃包丁でメッタ刺しにしたのか?【厳選再公開】 保険金「1億3000万円」“鬼畜一家”の日大生殺し #2”. 文春オンライン. 文芸春秋社. p. 5. 2025年9月6日閲覧。
外部リンク
- 日大生殺し事件 親心とエゴイズム(史談裁判=第三集-25-) 法学セミナー (192), 92-94, 1972-01 日本評論社 NAID 40003472116
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