摩文仁家の墓とは? わかりやすく解説

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摩文仁家の墓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 05:21 UTC 版)

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摩文仁家の墓(まぶにけのはか)は、沖縄県南風原町にある琉球王族摩文仁御殿の墓である。墓様式は破風墓亀甲墓いずれでもない独特の形をしている。1970(昭和45)年7月14日に沖縄県指定文化財(建造物)[1]

概要

摩文仁御殿は、第二尚氏王統第十代尚質王の次男・尚弘毅、大里王子朝亮(1647年 - 1687年)を元祖とする御殿(うどぅん、王家分家)である。一世・朝亮は尚貞王摂政を務めた。摩文仁家の墓は、この朝亮が国王から拝領したと伝えられる墓であるが、造墓年は不明である。

墓様式は、墓室屋根の前面部の形が亀甲墓のようなマユ(眉)型ではなく、扁平な三角形をしており、屋根部は土を盛って亀甲形に形成し、さらに漆喰で仕上げているとされる。亀甲墓ではないが、さりとて玉陵のような破風墓でもない独特の形式である。墓口は幅が広く蓋(ヒラチ)は石扉による観音開きの構造となっている。墓室正面左右には袖石が各一段ある。石積みは琉球石灰岩の切石による布積みである。

墓室内部は、石柱を6本設置し、その上に石梁を渡し、さらにその上に微粒砂岩(ニービの骨)製の石版を置いて天井としている。石柱で平天井を支える形式は、他には玉城朝薫の墓くらいしか類例がない珍しいものである。墓室内奥には基壇が一段設けられている。

墓庭を囲む石牆(袖垣)は、かつては琉球石灰岩による切石積みだったと考えられるが、戦争で破壊されたのか現在はコンクリートブロック製となっている。墓庭への入口(門)は墓室正面向かって左の石牆側にあるが、墓のすぐ前を那覇空港自動車道が通っており、本来の形式かは不明である。一般に他の御殿墓では墓室正面に正対して入口が設けられている。摩文仁家の墓は、その住宅風の珍しい形式により、1970(昭和45)年に沖縄県の指定文化財(建造物)[1] となった。

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ a b 子供の観た旧跡史跡「摩文仁家の墓」

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