左右田と山吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:49 UTC 版)
両名は若くして病死の義周の分まで長生きしたが、その生きざまは対照的でもあった。 山吉盛侍は義周が死去すると米沢へ戻り、三十人頭に就任し200石を領した。内政や外交に優れた能吏であった。宝暦3年(1753年)7月28日、死去。享年八十三。明治維新では仍孫の山吉盛典が治水に長けた開明派の福島県令として著名。 左右田重次は、還暦を過ぎてなお数多の仕官の口があったが断り、三河の吉良家菩提寺・華蔵寺にも義周の墓を建立した。同地にて静かに余生を過ごした後、享保八年(1723年)二月二十九日に八十八歳にて、生涯を閉じる。
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