崇禅寺馬場の仇討とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 崇禅寺馬場の仇討の意味・解説 

崇禅寺馬場の仇討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/28 20:41 UTC 版)

崇禅寺馬場の仇討(そうぜんじばばのあだうち)は、正徳5年(1715年11月4日摂津国西成郡浜村崇禅寺の松原において、遠城治左衛門および安藤喜八郎の兄弟が、末弟である宗左衛門のかたきである生田伝八郎を討とうとして、返り討ちにあった事件である。浄瑠璃、映画などの題材となった。

概要

実説として伝えられるところによれば、正徳5年5月14日、大和国郡山藩の鎗術師範である遠城治郎左衛門の末子である宗左衛門(17歳)は、兵術のことが原因で家中の生田伝八郎(25歳)といさかいをおこし、殺害された。伝八郎は国元を立ち去り、弓師中澤丹波の世話で大阪曾根崎新地花屋の離れ座敷に身を寄せ、剣術指南をしていた。

宗左衛門の兄弟である遠城治左衛門および安藤喜八郎は敵を取ることを決意し、大坂に出て生田の行方を捜していた。兄弟はある日偶然にも、生玉神社の近くで生田と出くわし、ただちに勝負を迫った。生田は、神域を騒がすのは自分の不本意であり、門弟を引き連れているから助太刀をされてはかえって武士の面目にかかわるとして、後日のことを約束し書面で打ち合わせ、11月4日早朝、崇禅寺馬場で果たし合いと定まった。

11月4日、生田の大勢の門弟らは稲村の陰、松の梢に姿を潜めて助太刀をしたため、兄弟は無惨な返り討ちにあった。

11月24日、生田は大和矢田の常称寺で、理由不明の切腹をとげた。

映画

数多く日本の剣戟映画の題材となった。

関連項目



このページでは「ウィキペディア」から崇禅寺馬場の仇討を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から崇禅寺馬場の仇討を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から崇禅寺馬場の仇討 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「崇禅寺馬場の仇討」の関連用語

崇禅寺馬場の仇討のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



崇禅寺馬場の仇討のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの崇禅寺馬場の仇討 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS