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富士能廣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 03:16 UTC 版)

富士 能廣
別名 富士長門
個人情報
宗教 神道
配偶者 大原源兵衛の娘、大原源兵衛の養女、天野清福の娘
子供 米之助、岩治郎、門十郎、富士能樹、鶏治郎、宮次郎、佐京
両親 父:富士能茂
別名 富士長門
戒名  
寺院 富士山本宮浅間大社
聖職 公文
地位
就任日 明和4年(1767年
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富士 能廣(ふじ よしひろ)は、 江戸時代富士山本宮浅間大社の公文職。

略歴

公文富士家に伝わる系図によると[1]、父である富士能茂が明和4年(1767年)に隠居し、それに伴い家督を相続したとある。妻は大原源兵衛の娘、後妻として大原源兵衛の養女を迎えている。何れも早世し、後に天野清福の娘を正室としている[2]

『開帳差免帳』によると、天明9年(1789年)に江戸幕府により富士山本宮浅間大社の開帳許可が認められた人物として「公文富士長門」が記される[3]

寛政期になると、従来からの荒れ地であり問題を抱えていた万野原[注釈 1]の新田開発の話が持ち上がった。能廣は万野用水開削を幕府と交渉するため、江戸へ向かうなどしている[4]

能廣の事蹟として、寛政10年(1798年)の韮山代官所宛の文書[5]およびそれに伴う翌年の制札[6]が富士山史として取り上げられることが多い。これは当時大宮・村山口登山道の起点である大宮口を通らず村山口に至る登拝者がおり不利益を被っていたため、岩本[注釈 2]と大宮に制札を立てることを望み、登拝者の法度厳守[注釈 3]を求めたものである[8][9]

背景として、大宮口が位置する浅間大社の修理料は登拝者が支払う役銭が充てられていたがその役銭不足が問題となっていたこと、村山口を経ない登山も横行していたため村山も同じく同調したものと目される[10]

脚注

注釈

  1. ^ 現在の静岡県富士宮市万野原
  2. ^ 現在の静岡県富士市岩本、大宮へ至る道中(富士本道)にある地名
  3. ^ 寛文2年(1662年)に井出藤右衛門・古郡孫大夫により制札が出されており、同内容のものとなっている[7]

出典

  1. ^ 浅間文書纂 1973, p. 222.
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百七十九「天野」
  3. ^ 朝倉治彦「『開帳差免帳』細目(稿)」『参考書誌研究』55、2001、17頁
  4. ^ 髙橋菜月「北山用水と万野用水」『古地図で楽しむ富士山』、風媒社、2020、169-170頁
  5. ^ 浅間文書纂 1973, p. 272.
  6. ^ 浅間文書纂 1973, p. 412-413.
  7. ^ 浅間文書纂 1973, p. 242-243.
  8. ^ 富士山世界遺産センター 2021, p. 127.
  9. ^ 井上卓哉「収蔵品紹介 木版手彩色「冨士山禅定圖」にみる富士山南麓の信仰空間」『静岡県博物館協会研究紀要』37、2013、25頁
  10. ^ 髙橋菜月「中近世期表口の道者管理と役銭」『富士学研究』Vol.16 No.1、2020、56-59頁

参考文献

  • 浅間神社社務所『浅間文書纂』名著刊行会、1973年。 
  • 静岡県富士山世界遺産センター『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』2021年。 



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