宮崎直定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/05 07:20 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 宮崎隠岐入道、次郎入道 |
官位 | 隠岐守 |
主君 | 畠山政国→畠山高政 |
氏族 | 湯川氏→宮崎氏 |
父母 | 父:湯河直光[1]、義父:宮崎慶真[2] |
兄弟 | 直定、定冬、畠山政国室 |
妻 | 杉原兵部尉叔母 |
子 | 定時、定秋、之存[3] 』、鹿目介、湯川春定、碓氷因幡守定仙、行松康忠室、湯河安芸守宗慶室、貴志宗次室、宮崎定房室[4][5] |
宮崎 直定(みやざき なおさだ)は、戦国時代の武将。畠山氏の家臣。
概要
紀伊国の宮崎氏は熊野別当湛増の末裔とされ、宮崎荘を本拠地とした国人。通説では嘉応年間の宮崎定範から天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって没収されるまで約400年間宮崎荘の領主であったとされるが、史料から確認できる「安養寺文書」内の寛正2年(1461年)9月付の文書に見える藤原定経や永正11年(1514年)10月付の文書に見える藤原定軌、飛鳥神社にある文明8年(1476年)7月16日付の棟札に見える藤原定弘らが宮崎氏の祖とされる[6]。
直定は『有田市誌』所収の系譜によると宮崎慶真の子とされるが、『古今采輯』によると湯河直光の子とされる[7][8]。
後世の資料によると宮崎荘7箇所3000石を領地としていたものの、天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって没収されたという[9]。
脚注
注釈
出典
関連項目
- 宮崎直定のページへのリンク