宝蔵寺 (知立市)
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宝蔵寺 | |
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所在地 | 愛知県知立市宝町刈谷道56 |
位置 | 北緯35度00分32.7秒 東経137度02分20.3秒 / 北緯35.009083度 東経137.038972度座標: 北緯35度00分32.7秒 東経137度02分20.3秒 / 北緯35.009083度 東経137.038972度 |
山号 | 亀岳山 |
宗派 | 曹洞宗 |
創建年 | 喜祥3年(850年) |
開山 | 慈覚大師(円仁) |
中興年 | 正徳4年(1714年) |
中興 | 江水禅師 |
法人番号 | 9180305004769 |
宝蔵寺(ほうぞうじ)は、愛知県知立市宝町刈谷道56にある曹洞宗の寺院[1]。山号は亀岳山[1]。楞厳寺の末寺[2]。
歴史
創建
嘉祥3年(850年)、慈覚大師(円仁)によって天台宗の寺院として創建された[1]。池鯉鮒大明神の古代神宮寺七坊の一坊であり[1]、もとは宝蔵坊と称していた[3]。
後に天台宗から真言宗山階派に改宗し、さらに真言宗国分寺派に変わった[1]。この頃は貴学山という山号だったが、やがて寺勢が衰えた[3]。
近世

慶長5年(1600年)、刈谷城主の水野忠重、浜松城主の堀尾吉晴、加賀野井城主の加賀井重望が池鯉鮒宿で酒宴を催した際、口論となって加賀井重望が水野忠重を刺殺し、その後重望は弥八郎は堀尾吉晴に斬り殺された[1][4]。岡崎城主の田中吉政によって、宝蔵寺に加賀井重望の墓が建立された。
池鯉鮒宿から刈谷城下に向かう刈谷道の起点近くにあった。江戸時代中期の正徳4年(1714年)、刈谷城下にある楞厳寺の江水禅師によって中興再建され、亀岳山宝蔵寺に改称した上で曹洞宗の寺院となった[1]。なお、知立における楞厳寺の末寺には小松寺や慈眼寺もある[5]。
近代
1873年(明治6年)9月24日には了運寺庫裏を用いて知立学校(現・知立市立知立小学校)が創立されたが[6]、宝蔵寺や小松寺も校舎に充用されている[7]。
境内

- 本堂 - 正徳4年(1714年)竣工[3]。
- 庫裏
- 書院
- 弘法堂 - 1959年(昭和34年)竣工[3]。
- 弁天堂 - 弁財天座像を祀る。1976年(昭和51年)再建[3]。明治時代初期に明治用水が通水するまでは、西側の裏山にあった溜池に祀られていた。
- 山門 - 鐘楼門。1923年(大正12年)頃改築[3]。
- 墓地 - 岡崎城主の田中吉政によって建立された加賀井重望の墓がある[4]。
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加賀野井弥八郎墓
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追腹塚
文化財
市指定文化財
- 「加賀野井弥八郎墓」(建造物) - 加賀野井城主の加賀井重望の墓。慶長5年(1600年)、池鯉鮒宿での酒宴の最中に刈谷城主の水野忠重を斬ったが、浜松城主の堀尾吉晴に斬り殺された。加賀井重望の遺骸が宝蔵に葬られ、岡崎城主の田中吉政によって墓が建立された。全高45センチメートルの宝篋印塔であり、太平洋戦争中に相輪と塔身を逸失した[3]。1965年(昭和40年)1月1日指定。
- 「追腹塚」(史跡) - 刈谷城主の水野忠重が斬り殺された際、主君を死なせた責任から追腹を切って自害した2人の付き人の塚[3]。もとは宝町石亀にあったものが宝蔵寺に移された。1974年(昭和49年)5月21日指定。
- 「秋葉権現(飯縄権現)立像」(彫刻)
- 「開山杖」(工芸)
知立三弘法
知立市には三河三弘法とは異なる霊場巡礼として知立三弘法があり、いずれの寺院も本尊とは別に弘法大師(空海)を祀っている[8]。了運寺は知立駅と知立神社や総持寺(三河新四国八十八ヶ所霊場第1番)を結ぶ経路上にあるため、毎月21日の縁日には巡拝者が多いとされるが、宝蔵寺と慈眼寺の巡拝者はそれほど多くないとされる[8]。
番号 | 名称 | 宗派 | 所在地 |
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第1番 | 宝蔵寺 | 曹洞宗 | 知立市宝町刈谷道56 |
第2番 | 了運寺 | 浄土宗 | 知立市西町西84-1 |
第3番 | 慈眼寺 | 曹洞宗 | 知立市山町桜馬場4 |
現地情報
- 所在地
- 交通アクセス
脚注
参考文献
- 『知立町誌』知立町、1926年
- 『知立市史 上巻』知立市教育委員会、1976年
- 隅田三郎『知立の宗教』知立市中央公民館、1991年
- 知立市史編纂委員会『知立市史 中巻』知立市、1977年
- 永田友市『三河三弘法と巡礼』永田友市、2006年
- 野村泰三『知立の文化財と史跡』知立市文化協会、1990年
外部リンク
- 宝蔵寺 知立観光ナビ
- 宝蔵寺_(知立市)のページへのリンク