宜寧玉氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/12 15:35 UTC 版)
宜寧玉氏 宜春玉氏 | |
---|---|
氏族 | |
国 | 朝鮮 |
領地 | 慶尚南道宜寧郡 |
家祖 | 玉真瑞 |
著名な人物 | 玉観彬、玉朝南、玉満鎬、玉漢欽、オク・ジュヒョン、テギョン |
의령옥씨대종회 |
宜寧玉氏(ウィリョンオクし、의령옥씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は慶尚南道宜寧郡である。2015年の調査では、19,909人(「宜寧」の別の読み方を含む。他に同系列の宜春玉氏は3,357人)である[1]。
歴史
始祖は、中国唐から高句麗に八学士の1人として派遣された玉眞瑞である。高句麗滅亡後、新羅で国学教授を務めて、宜春君に封じれ文恵という諡号を受けたとする。
その後の文献が失伝したため、高麗で倉正を務め玉恩宗を1世祖とする系統と平章事玉汝を1世祖とする系統に分かれた。
玉恩宗の6世孫である服膺斎生玉安徳の息子玉斯温が1389年に文科に合格し、珍城監務玉斯美の息子玉沽は1399年に文科に合格し、御史府掌令などを歴任した[2]。
議論
『登科録前編』に1389年文科に合格した王斯温がいる。しかし、『朝鮮一族通報』には、宜寧玉氏は『辛昌己巳文科玉斯温』と記録されている。これは李成桂の易姓革命以降、元王族開城王氏が玉氏に改姓した可能性がある。王斯温の甥玉沽の文科榜目を見ると、父は玉斯美である。玉斯温は玉斯美の弟である[3]。『朝鮮氏族統譜』によると、玉沽は、班城玉氏編に記録されている。このことから玉斯美は班城玉氏で、弟玉斯温は宜寧玉氏に分派したようである。現在は宜寧玉氏に吸収された。1918年に発行された開城王氏族譜戊午譜には玉姓を使っていたいくつかの王氏がいた。
行列字
○世孫 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
行列字[4] | 치◯(致) 수◯(壽) 은◯(垠) 규◯(奎) 규◯(圭) 곤◯(坤) |
◯호(鎬) ◯흠(欽) ◯연(鍊) ◯록(錄) ◯용(鏞) ◯석(錫) |
순◯(淳) 수◯(洙) 영◯(泳) 옥◯(沃) 치◯(治) 태◯(泰) 윤◯(潤) |
◯휘(彙) ◯수(秀) ◯표(杓) ◯근(根) ◯환(桓) ◯식(植) |
용◯(容) 유◯(裕) 형◯(炯) 연◯(然) 찬◯(燦) 훈◯(熏) |
◯주(周) ◯재(在) ◯기(基) ◯배(培) ◯균(均) ◯평(坪) |
종◯(鍾) 용◯(鎔) 탁◯(鐸) 은◯(銀) 수◯(銖) 명◯(銘) |
◯홍(洪) ◯한(漢) ◯홍(泓) ◯하(河) ◯충(沖) ◯호(浩) |
동◯(棟) 진◯(桭) 정◯(楨) 동◯(東) 계◯(桂) 주◯(柱) |
◯렬(烈) ◯돈(焞) ◯현(炫) ◯휴(烋) ◯경(炅) ◯희(熙) |
過去及第者
宜寧玉氏は朝鮮時代の文科及第者5人、武科及第者6人、生員・進士8人を輩出した[5]。
- 文科
玉景錬 玉沽 玉礪 玉秉観 玉晋輝
- 武科
玉文里同 玉大集 玉承 玉信浩 玉永潤 玉采荊
- 生員試
玉光亨 玉世宝 玉振韶 玉穉圭
- 進士試
玉以琢 玉在温 玉振 玉晋輝
著名な人物
集姓村
人口
- 1985年 4,622世帯 18,900人
- 2000年 6,157世帯 19,368人
- 2015年 宜寧玉氏19,909名 + 宜春玉氏3,357人 = 23,266人[1]
脚注
- ^ a b “KOSIS”. kosis.kr. 2022年11月24日閲覧。
- ^ 세종실록 64권, 세종 16년 6월 1일 병오 6번째기사
- ^ 옥사온 - 韓国学中央研究院
- ^ “항렬표 - 의령옥씨대종회”. www.urok.or.kr. 2025年3月12日閲覧。
- ^ 宜寧玉氏 - 韓国学中央研究院
- ^ “옥씨(玉氏) 본관(本貫) 의령(宜寧)입니다.”. www.findroot.co.kr. 2022年7月27日閲覧。
参考文献
- “옥씨(玉氏) 본관(本貫) 의령(宜寧)입니다.”. 한국족보출판사. オリジナルの2022年9月17日時点におけるアーカイブ。
- 金光林 (2014年). “A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names” (英語) (PDF). Journal of cultural interaction in East Asia (東アジア文化交渉学会): p. 18. オリジナルの2016年3月27日時点におけるアーカイブ。
関連項目
- 宜寧玉氏のページへのリンク