天野就友とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 天野就友の意味・解説 

天野就友

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/22 02:12 UTC 版)

 
天野 就友
時代 江戸時代前期
生誕 慶長18年(1613年[1]
死没 延宝3年9月2日1675年10月20日[1]
改名 岩松丸(幼名)→就友
別名 通称:忠兵衛[1]→九郎左衛門[1]
官位 雅楽允[1]
主君 毛利秀就綱広
氏族 藤原南家工藤氏金明山天野氏
父母 父:天野元重[1]
養父:天野元因[1]
みや(兼重元辰の娘、天野元因養女)[1]
就景[1]友時[1]
テンプレートを表示

天野 就友(あまの なりとも)は、江戸時代前期の武士毛利氏の家臣で萩藩(長州藩)士。天野元重の四男で、天野元因の養子となる。

生涯

慶長18年(1613年)、毛利氏家臣・天野元重の四男として生まれ、子がいなかった同族の天野元因の養子となる[1]幼名は「岩松丸」。

元和7年(1621年6月13日兼重元辰の娘で就友と同じく元因の養女となった「みや」と婚姻し、実子がいない元因の知行職を相続することを毛利輝元秀就父子から認められた[2][3]。なお、もし2人が不和によって離縁した場合は、就友が相続した元因の知行職は「みや」に返還させるが、もし「みや」に問題がある場合は言上することと定められた[2][3]

同年7月13日、毛利秀就から「就」の偏諱と「雅楽允」の官途名を与えられ[4]、曽祖父である天野元友から「友」の字をとって天野雅楽允就友と名乗った。

寛永14年(1637年2月14日に養父の元因が死去したため、家督を相続する[1]

延宝3年(1675年9月2日に死去[1]。享年63[1]。長男の就景(与三右衛門)は早世していたため、次男の友時が後を継いだ[1]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」家譜。
  2. ^ a b 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第32号、元和7年(1621年)6月13日付け、天野岩松(就友)との宛て、毛利秀就・毛利宗瑞(輝元)書状。
  3. ^ a b 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第33号、元和7年(1621年)6月13日付け、あま野しま娘ミや宛て、毛利秀就・毛利宗瑞(輝元)書状。
  4. ^ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第34号、元和7年(1621年)7月13日付け、天野岩松との宛て、毛利秀就官途状。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  天野就友のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「天野就友」の関連用語

1
18% |||||

天野就友のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



天野就友のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの天野就友 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS