天野就友
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長18年(1613年)[1] |
死没 | 延宝3年9月2日(1675年10月20日)[1] |
改名 | 岩松丸(幼名)→就友 |
別名 | 通称:忠兵衛[1]→九郎左衛門[1] |
官位 | 雅楽允[1] |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
氏族 | 藤原南家工藤氏流金明山天野氏 |
父母 | 父:天野元重[1] 養父:天野元因[1] |
妻 | みや(兼重元辰の娘、天野元因養女)[1] |
子 | 就景[1]、友時[1] |
天野 就友(あまの なりとも)は、江戸時代前期の武士。毛利氏の家臣で萩藩(長州藩)士。天野元重の四男で、天野元因の養子となる。
生涯
慶長18年(1613年)、毛利氏家臣・天野元重の四男として生まれ、子がいなかった同族の天野元因の養子となる[1]。幼名は「岩松丸」。
元和7年(1621年)6月13日、兼重元辰の娘で就友と同じく元因の養女となった「みや」と婚姻し、実子がいない元因の知行職を相続することを毛利輝元・秀就父子から認められた[2][3]。なお、もし2人が不和によって離縁した場合は、就友が相続した元因の知行職は「みや」に返還させるが、もし「みや」に問題がある場合は言上することと定められた[2][3]。
同年7月13日、毛利秀就から「就」の偏諱と「雅楽允」の官途名を与えられ[4]、曽祖父である天野元友から「友」の字をとって天野雅楽允就友と名乗った。
寛永14年(1637年)2月14日に養父の元因が死去したため、家督を相続する[1]。
延宝3年(1675年)9月2日に死去[1]。享年63[1]。長男の就景(与三右衛門)は早世していたため、次男の友時が後を継いだ[1]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」
国立国会図書館デジタルコレクション
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