天津ベルギー租界
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天津ベルギー租界(てんしんベルギーそかい、仏語:Concession belge de Tianjin、中国語:天津比租界)は、1902年から1931年まで中国の天津市に存在した、面積120エーカーのベルギーによる租界であり、中国における唯一のベルギー租界であった。ベルギー自身の租界は大規模な開発が行われなかったものの、天津の華界(租界の対義語、即ち中国人の居住地)や他国租界におけるインフラ建設には非常に積極的であり、旧市街を含む各国租界の中では「工事の隊長」とも称される存在であった。

歴史
義和団の乱に際してベルギーは軍を派遣しなかったにもかかわらず、領事Maurice Joostensの交渉により、ロシアが既に要求していた海河東岸の土地を獲得することに成功した。ベルギー側が同地に工場を建設する意向を示したことで、ロシアは譲歩したのである。1902年2月6日、清国政府の張連芬は、天津駐在のベルギー代理領事 Henri Ketelsと「天津比租界契約」に署名した。租界の区画が定められるとすぐに、ロシア租界に隣接する境界に木製の標杭が打ち込まれ、ベルギー租界が画定された[1]。
差し迫る財政危機を前に、ベルギー領事は友好の証として租界を中国に返還することを発表した。1929年8月31日、中国とベルギーは「天津比租界返還章程」に署名し、租界の行政権および全ての公有財産を中国政府に移譲すること、他方で租界の負債9万3千両(利息を含む)を中国政府が返済することを規定した[2]。
出典
- ^ ““比利时租界工部局”,在这儿(组图)-搜狐新闻”. news.sohu.com. 2025年8月18日閲覧。
- ^ Brady, Anne-Marie (2013). Foreigners and Foreign Institutions in Republican China. Routledge. pp. 27. ISBN 9780415528658
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