司馬裒とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 司馬裒の意味・解説 

司馬裒

(司馬ホウ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 13:51 UTC 版)

司馬 裒(しば ほう、永康元年(300年)- 建武元年10月29日[1]317年12月18日))は、中国皇族。琅邪孝王。は道成。

経歴

琅邪王司馬睿と荀氏(豫章郡君)のあいだの次男として生まれた。母の荀氏の身分が低かったため、父の司馬睿の命により司馬裒は虞妃に養育された。はじめ叔父の司馬渾の後を嗣いで長楽亭侯となった。後に宣城郡公に徙封され、後将軍に任じられた。司馬睿は晋王となると、長男の司馬紹を差し置いて、次男の司馬裒を太子を立てようと考えていた。司馬睿が王導に相談すると、王導は年長を立てるよう強く勧めたため、司馬紹が太子に立てられることとなった。

建武元年(317年)3月、司馬裒は琅邪王に封じられた。会稽郡宣城郡に食邑5万2000戸を与えられた。散騎常侍・使持節・都督青徐兗三州諸軍事・車騎将軍に任じられ、広陵に赴任した。6月、後趙石勒石虎を派遣して譙城を包囲したが、東晋の平西将軍の祖逖が石虎の兵を撃破した。司馬裒は九軍3万の兵を率いて、祖逖の下につき、石虎を追撃するよう司馬睿に命じられた。まもなく建康に召還された。

10月、死去した。享年は18。車騎大将軍の位を贈られ、侍中の位を加えられた。穆帝のとき、さらに太保の位を贈られた。

妻子

  • 山氏(琅邪王妃)

  • 司馬安国(琅邪哀王、早逝)

脚注

  1. ^ 『晋書』巻6, 元帝紀 建武元年十月丁未条による。

伝記資料

  • 晋書』巻64 列伝第34



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  司馬裒のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「司馬裒」の関連用語

司馬裒のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



司馬裒のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの司馬裒 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS