可汗国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
742年、回紇(ウイグル)部は葛邏禄(カルルク)部とともに、抜悉蜜(バシュミル)部を盟主として反東突厥同盟を結び、抜悉蜜大酋の阿史那施を立てて賀臘毘伽可汗(頡跌伊施可汗、イルティリシュ・カガン)とした。三者は協調して東突厥を攻撃し、東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)を殺した。744年、回紇部と葛邏禄部は盟主である頡跌伊施可汗を殺し、代わって回紇部の頡利発(イルテベル:部族長)であった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガン)となり、唐に遣使して懐仁可汗(在位:744年 - 747年)の称号を賜った。745年には最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥を滅ぼし、ついにモンゴル高原の覇者となった。
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