劉延年 (前趙)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 劉延年 (前趙)の意味・解説 

劉延年 (前趙)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 17:22 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

劉 延年(りゅう えんねん、生没年不詳)は、中国五胡十六国時代の漢(後の前趙)の皇族匈奴屠各種攣鞮部の長である劉豹の子で、光文帝劉淵の長兄で、劉良孫の父である。

生涯

15歳の時に叔父に養育された。誠意を持って奉仕し、その孝行ぶりで評判であった[1]

ある時、子の劉良孫と従弟が食人の風習を持つ蛮人の賊に攫われた。劉延年はすぐさまこれを追いかけて許しを請うた。賊は劉良孫だけを返してやったが、劉延年は「我は幼い頃に孤児となり、叔父に養われた。従弟は叔父のたった一人の子であるから、願わくばわが子と交換していただけないだろうか」と拝請した。賊は「君は義士であるな」と言い、両方を許してやった[1]

後に左独鹿王に任じられた。304年、弟の劉淵が挙兵すると司馬穎救援を命じられ、右於陸王劉景と共に歩兵・騎兵2万を率いて鮮卑討伐に向かった。

308年10月、劉淵が帝位につくと、江都王に封じられた。

劉淵が文水県西南11里の場所に城を築くと、劉延年がこれを鎮守した。胡語では長兄を大干と呼ぶ事から、劉淵はこの城を大干城と名づけた[2]。劉延年は将軍としては士卒を巧みに御し、睡眠の際にも幕中に留まったという[3]

309年大司空に任じられた。310年7月、劉淵が重篤に陥ると、太保に任じられて後事を託された。後に太宰に任じられた。

312年1月、甥の劉聡が太保劉殷の娘を後宮に入れようとすると、同じ劉姓であったことから劉聡の末弟の劉乂が固く諫めた。劉聡は伯父の劉延年・太傅劉景にこのことを問うと、劉延年らは「臣は太保の劉殷が王室系の劉の康公(姫季子)の子孫であると聞いております。陛下の家系とは違っておりますので、何の問題もないでしょう」と答えた。劉聡は大いに喜び、大鴻臚の李弘を遣わして劉殷の娘2人(劉英劉娥)を左右の貴嬪とし、昭儀より上位に置いた。また、劉殷の孫娘4人を貴人とし、貴嬪に次ぐ位とした。

3月、劉聡の遊猟を諫めた中軍王彰が処刑されそうになると、劉延年は諸公卿列侯100人余りと共に劉聡の前に赴き、冠を外して涙を流しながら「光文帝(劉淵)は、聖なる武をもってよって期を見定めて大業を興しました。だが、天下はいまだ定まらず、陛下はその徳によって事業を受け継ぎ、東に洛陽を、南に長安を平定しました。その功績は周の成王に匹敵し、徳は啓王を超越しております。さながら唐・虞()を見ているようです。しかし近年は、僅かな誤りで王公を処刑し、直言をしたことで大将を獄に繋ぎました。また、遊猟にも節度がなく、朝政を顧みようとなさりません。臣らにはその意味を理解することができず、心を痛めて寝食を忘れるほどであります」と固く諫めて言った。ここに至って、ようやく劉聡は怒りを収めて王彰を許した。

314年1月、録尚書六条事に任じられた。

参考文献

  • 晋書』巻101・載記第1-2

脚注

  1. ^ a b 太平御覧』巻421
  2. ^ 『元和郡県図志』による。
  3. ^ 『初学記』による。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「劉延年 (前趙)」の関連用語

劉延年 (前趙)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



劉延年 (前趙)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの劉延年 (前趙) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS