劉休若とは? わかりやすく解説

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劉休若

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/30 21:46 UTC 版)

劉 休若(りゅう きゅうじゃく、元嘉25年(448年)- 泰始7年7月7日471年8月8日))は、南朝宋皇族。巴陵哀王。文帝劉義隆の十九男。

経歴

文帝と羅美人のあいだの子として生まれた。孝建3年(456年)1月、巴陵王に封じられた。大明2年(458年)、冠軍将軍・南琅邪臨淮二郡太守となった。南彭城下邳二郡太守に転じた。大明4年(460年)3月、都督徐州諸軍事・徐州刺史として出向した。大明5年(461年)、建康に召還されて散騎常侍・左右郎将・呉興郡太守となった。また召還されて散騎常侍・太常となった。永光元年(465年)、左衛将軍の号を受けた。

同年(泰始元年)12月、散騎常侍・中書令に転じ、衛尉を兼ねた。泰始2年(466年)1月、鎮東将軍の号を受けた。使持節・都督会稽東陽永嘉臨海新安五郡諸軍事として出向し、安東将軍・会稽郡太守を兼ねて、明帝即位に反対する東方の諸勢力を討った。2月、散騎常侍の位を加えられ、衛将軍の号を受けた。9月、梁雍南北秦四州荊州之竟陵隨二郡諸軍事・寧蛮校尉・雍州刺史に任じられた。

会稽にいたときに賄賂を受け、母の喪中に声楽と飲酒を楽しんでいたことを咎められ、泰始3年(467年)1月に鎮西将軍に降格された。まもなく衛将軍にもどされた。7月、薛安都の子の薛伯令が雍州4郡に拠ると、休若はこれを討って斬った。泰始4年(468年)1月、典籤の夏宝期を投獄して殺したことが明帝の怒りを買い、左将軍に降格され、使持節・都督を監と改められ、雍州刺史は正式の任から代行に格下げされ、封500戸を削減された。5月、使持節・都督湘州諸軍事・行湘州刺史として出向した。泰始5年(469年)6月、征南将軍・湘州刺史となった。閏月、都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・荊州刺史に転じた。まもなく散騎常侍の位を加えられた。

泰始7年(471年)2月、征西大将軍・開府儀同三司の位を受けた。晋平王劉休祐が殺害されると、休若が代わって都督南徐南兗徐兗青冀六州諸軍事・征北大将軍・南徐州刺史に任じられた。劉休祐の旧部下や中兵参軍の王敬先らが休若に湖北湖南地方での自立を勧め、休若はこれにうなずいた。6月、都督江郢司広交五州豫州之西陽新蔡晋熙湘州之始興四郡諸軍事・車騎大将軍・江州刺史に転じた。建康に召還され、7月7日に邸において死を賜った。享年は24。侍中司空の位を追贈された。

子に劉沖始があり、廬江王劉禕の後を嗣いだ。

伝記資料

  • 宋書』巻72 列伝第32
  • 南史』巻14 列伝第4



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