六郎兵衛の子の又五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/24 00:01 UTC 版)
『昔阿波物語』によると、「實休様のお守り加地六郎兵衛」の子もやはり加地又五郎という名で、天正3年(1575年)、三好康長が織田信長に高屋城の戦いで敗れ降伏した後は、15歳の又五郎が籠る「しほり城」だけが信長に抵抗を続けたが、やがて落城し又五郎は阿波国へと落ちのびた。 天正5年(1577年)、三好長治が自害に追い込まれた際は、17歳の又五郎もともに自害した。三好長治と一緒に自害した人物の名は、『三好記』や『南海通記』では梶木又五郎、『阿波志』では柁井又五郎となっている。
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