入交家住宅
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入交家住宅 | |
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所在地 | 三重県伊賀市上野相生町2828 |
位置 | 北緯34度45分53.2秒 東経136度7分56.7秒 / 北緯34.764778度 東経136.132417度座標: 北緯34度45分53.2秒 東経136度7分56.7秒 / 北緯34.764778度 東経136.132417度 |
類型 | 武家屋敷 |
建築年 | 寛政年間(1800年頃)(推定) |
文化財 | 県指定有形文化財 |
入交家住宅(いりまじりけじゅうたく)は伊賀国(現在の三重県伊賀市相生町)に存在した武家屋敷。
住宅の概要
入交家住宅は、寛政(1789年 - 1800年)の頃に入交勘平が津藩から拝領した武家屋敷と伝えられる[1]。敷地には主屋、長屋門、表屋、土蔵、味噌部屋(非現存)、米蔵(非現存)などを構え、主屋の南側と東側には庭園や畑が存在したとされる[1]。床は板張りであり、畳は使用されていなかったという[1]。三重県内では唯一長屋門が現存する武家屋敷である[2]。
1998年3月17日、三重県指定文化財となる。現在は一般に公開されており、入館料を払えば立ち入ることができる[2]。
家主・入交氏
家主の入交氏は長宗我部氏に仕えた家系であり[3]、津藩に仕えた一系が入交家住宅を建築した。土佐藩に残った一系は郷士となり、寛延元年に長岡郡片山荘入交から高知城下に転じ、桜屋と号する商人となる。長岡郡下田村の石灰山を購入後、石灰の製造に着手し、幕末には藩の石灰御用を引き受ける豪商に上り詰める。明治維新後も、実業家の入交太蔵および弟の太兵衛、太三郎を輩出し、入交産業を軸とした地方財閥を築き上げた[4]。
入交 蔵人(いりまじり くらうど、? - 天正14年(1586年))は、戦国時代に活躍した武将。長宗我部元親・信親父子の家臣。
元は熊野山の山伏の一族であったが、土佐国香美郡田村に屋敷と所領を与えられ長宗我部氏に仕えた[3]。天正14年(1586年)、九州征伐の一環である戸次川の戦いに参加し、16人の主従と討ち死にした[3]。
脚注
- 入交家住宅のページへのリンク