入交家住宅とは? わかりやすく解説

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入交家住宅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/24 09:21 UTC 版)

入交家住宅
所在地 三重県伊賀市上野相生町2828
位置 北緯34度45分53.2秒 東経136度7分56.7秒 / 北緯34.764778度 東経136.132417度 / 34.764778; 136.132417座標: 北緯34度45分53.2秒 東経136度7分56.7秒 / 北緯34.764778度 東経136.132417度 / 34.764778; 136.132417
類型 武家屋敷
建築年 寛政年間(1800年頃)(推定)
文化財 県指定有形文化財
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入交家住宅(いりまじりけじゅうたく)は伊賀国(現在の三重県伊賀市相生町)に存在した武家屋敷

住宅の概要

入交家住宅は、寛政1789年 - 1800年)の頃に入交勘平が津藩から拝領した武家屋敷と伝えられる[1]。敷地には主屋、長屋門、表屋、土蔵、味噌部屋(非現存)、米蔵(非現存)などを構え、主屋の南側と東側には庭園や畑が存在したとされる[1]。床は板張りであり、畳は使用されていなかったという[1]三重県内では唯一長屋門が現存する武家屋敷である[2]

1998年3月17日三重県指定文化財となる。現在は一般に公開されており、入館料を払えば立ち入ることができる[2]

家主・入交氏

家主の入交氏は長宗我部氏に仕えた家系であり[3]津藩に仕えた一系が入交家住宅を建築した。土佐藩に残った一系は郷士となり、寛延元年に長岡郡片山荘入交から高知城下に転じ、桜屋と号する商人となる。長岡郡下田村の石灰山を購入後、石灰の製造に着手し、幕末には藩の石灰御用を引き受ける豪商に上り詰める。明治維新後も、実業家の入交太蔵および弟の太兵衛、太三郎を輩出し、入交産業を軸とした地方財閥を築き上げた[4]

入交 蔵人(いりまじり くらうど、? - 天正14年(1586年))は、戦国時代に活躍した武将長宗我部元親信親父子の家臣。

元は熊野山山伏の一族であったが、土佐国香美郡田村に屋敷と所領を与えられ長宗我部氏に仕えた[3]。天正14年(1586年)、九州征伐の一環である戸次川の戦いに参加し、16人の主従と討ち死にした[3]

脚注

  1. ^ a b c いがぶら 伊賀市観光公式サイト 入交家住宅
  2. ^ a b Iga Portal 武家屋敷 入交家住宅
  3. ^ a b c 『戦国人名事典』(阿部猛西村圭子編)125頁
  4. ^ 丸善出版編『47都道府県ご当地文化大百科』丸善出版株式会社、令和6年10月30日、p.36.



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