伽山古墓
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伽山古墓 | |
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所在地 | 大阪府南河内郡太子町 |
位置 | 北緯34度30分54.63秒 東経135度38分4.87秒 / 北緯34.5151750度 東経135.6346861度座標: 北緯34度30分54.63秒 東経135度38分4.87秒 / 北緯34.5151750度 東経135.6346861度 |
形状 | 不明 |
埋葬施設 | 石槨(内部に木棺) |
出土品 | 鉄釘・銀製銙帯・鈴付刀子 |
築造時期 | 8世紀前半 |
被葬者 | 親王クラスの人物? |
史跡 | 大阪府指定史跡「伽山古墳」 |
有形文化財 | 帯金具及び刀子(大阪府指定文化財) |
地図 |
伽山古墓(とぎやまこぼ)は、大阪府南河内郡太子町にある奈良時代の墓。大阪府指定史跡に指定され(指定名称は「伽山古墳」)、帯金具及び刀子は大阪府指定有形文化財に指定されている。
概要
大阪府南東部、太井川西側に南北において延びる段丘上に位置する。南には太子西山古墳(敏達天皇陵)が所在する。1981年(昭和56年)に発掘調査が実施されている。
墳丘は流出して失われているが、一部で版築状の盛土が認められている[1]。埋葬施設は石槨で、凝灰岩切石を組み合わせて構築され、内部に鉄釘使用木棺を据える。木棺内からは、着装品として銀製銙帯一式・鈴付刀子が出土している。
埋葬時期は、奈良時代の8世紀前半頃と推定される[2][3][1]。墓誌等が出土していないため被葬者は明らかでないが、衣服令の規定から親王クラスの人物と想定する説が挙げられる[2][3]。
墓域は1993年(平成5年)に大阪府指定史跡に指定され(指定名称は「伽山古墳」)、帯金具及び刀子は同年に大阪府指定有形文化財に指定されている。現在では埋め戻しのうえで保存されている。
遺跡歴
- 1981年(昭和56年)、道路工事に伴う伽山遺跡の発掘調査、古墓の発見(大阪府教育委員会、1982年に概要報告)。
- 1993年(平成5年)3月31日、大阪府指定史跡に指定(指定名称は「伽山古墳」)、帯金具及び刀子が大阪府指定有形文化財に指定。
埋葬施設
埋葬施設としては石槨が構築されている。石槨の主軸は東西方向で、石槨の南東半は失われているが、全体の規模は長さ2.65メートル・幅1.63メートルを測る[1]。
石槨の石材は凝灰岩の切石。1枚の幅・高さは60センチメートル、厚さは15センチメートルの石材を使用して、西壁3枚・北壁5枚・南壁2枚以上を組み合わせて構築される(南壁の一部と東壁は欠失のため不明)[1]。底石はなく、凝灰岩の砕石を約10センチメートルの厚さで敷く[1]。砕石の上には木棺を据え、石槨と木棺の間には木炭を充填する[1]。木炭の下の床面では四隅に柱穴が確認されており、覆屋状施設の存在を示唆する[1]。天井石は元来なかったとみられる[1]。
木棺は、鉄釘の出土位置から、長さ1.5メートル以上・幅0.6メートル・厚さセンチメートル程度とみられる[1]。棺内からは、着装品として銀製銙帯一式(鉸具・丸鞆1・巡方2・丸鞆4・巡方2・丸鞆1・鉈尾の順)・鈴付刀子が出土している[1]。『日本後紀』などによれば、この銙帯は慶雲4年(707年)-延暦15年(796年)・大同2年(807年)-弘仁元年(810年)の限られた期間にのみ使用されたとされる[2][3]。
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鉄釘・銙帯金具・刀子出土状況(復元)
文化財
大阪府指定文化財
- 有形文化財
- 伽山墳墓出土帯金具及び刀子(考古資料) - 大阪府立近つ飛鳥博物館保管。1993年(平成5年)3月31日指定。
- 史跡
- 伽山古墳 - 1993年(平成5年)3月31日指定。
関連施設
- 大阪府立近つ飛鳥博物館(河南町東山) - 伽山古墓の石槨複製・出土品を展示。
脚注
参考文献
(記事執筆に使用した文献)
- 上田宏範「伽山遺跡」『国史大辞典』吉川弘文館。
- 「伽山遺跡」『大阪府の地名』平凡社〈日本歴史地名大系28〉、1986年。ISBN 458249028X。
- 玉井功「伽山古墓」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。 ISBN 4490102607。
関連文献
(記事執筆に使用していない関連文献)
- 『主要地方道富田林-太子線に伴う 伽山遺跡発掘調査概要II』大阪府教育委員会、1982年。
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