仙人掌群鶏図とは? わかりやすく解説

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仙人掌群鶏図

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/01 14:16 UTC 版)

『仙人掌群鶏図』
作者 伊藤若冲
製作年 天明9年(1789年)
種類 襖六面、紙本金地着色
寸法 177.2 cm × 92.2 cm (69.8 in × 36.3 in)
所蔵 西福寺、大阪府豊中市
登録 重要文化財(1952年指定[1])

仙人掌群鶏図』(さぼてんぐんけいず)とは、江戸中期の画家伊藤若冲が天明9年(1789年)に、大阪府豊中市にある西福寺のに描いた障壁画[注釈 1]である[3]。『動植綵絵』と並ぶ若冲の代表作とされ[4]、1952年(昭和27年)7月19日に国の重要文化財に指定された[1]。襖六面を使って金地にニワトリが整然と描かれ、両端には自由に茎を伸ばすサボテンが描画されている[3]。華やかな表面とは対照的に裏面には水墨表現で『蓮池図』(重要文化財)が描かれていたが、1930年に修繕と併せて六幅の掛け軸に改装された[5]

背景

若冲は明和3年(1766年)ごろに『動植綵絵』を完成後は画業から遠ざかっていたが、天明8年(1788年)に京都で発生した天明の大火で被災し、家屋を焼損したことで再び制作活動が開始された[6]。1月30日早朝、四条大橋のやや川下で発生した火事は瞬く間に燃え広がり、翌日の夕方には市中の全域に広がり、京都史上最大規模の火災となった[6]

当時73歳だった若冲は、住んでいた家、制作工房、実家の桝源といった家屋全てを失い、生きていくために絵を描いていく必要性に迫られた[7]。被災後、若冲は大阪の文人木村蒹葭堂のもとに身を寄せていたが、親交のあった薬種商の吉野寛斎(吉野五運)が、家財道具全てを失った若冲のために、檀家の西福寺で住み込みで制作できるよう襖絵制作の仕事を斡旋した[3][8]。若冲はおよそ半年ほど西福寺に身を寄せ、作品制作を行ったものと考えられている[8]。作品を完成させた後は京都の石峯寺に移り、没するまで暮らした[9]

作品

画題

『仙人掌群鶏図』は西福寺の仏間の須弥壇を挟んだ左右を彩る襖絵として制作された左右三面ずつの障壁画である[10][11]。地色として金箔が押され、その上に着色された六羽の雄鶏、四羽の雌鶏、七羽の雛が描かれ、両端にサボテンと青く着色された岩が描かれている[10]。本作品以外に若冲が制作した金碧障壁画は見つかっていない[12]。当時、サボテン自体が珍奇な植物とされていたが、サボテンと鶏という組み合わせ自体も他に類を見ない画題であった[13]

『動植綵絵』で見られたような花や生物の増殖といった混沌さは抑えられ、主題のみを強調するようなすっきりとした構図を採用している[12]

三羽の雄鶏と二羽の雌鶏、七羽の雛が描かれた左三面
三羽の雄鶏と二羽の雌鶏が描かれた右三面

モチーフ

裏面に描かれた『蓮池図』(部分)

青色で描かれた石は奇巌として知られる太湖石と見られ、石孔を縫うようにサボテンがヘラ状の葉を伸ばしている[13]。サボテンは1671年に上海からもたらされた、ウチワサボテン属の「大宝剣」あるいは「宝剣」もしくはそれに近しい品種をもとにしたのではないかと分析されている[14]。京都大学農学部助教授の瀬川弥太郎は、当時の京都では気候的に栽培不可能な品種であったことを指摘したうえで、吉野寛斎が大阪で営んでいた植物園で写生したものを転用したのではないかと類推している[15]。さらに「大宝剣」などは描写されている三分の一から半分程度の大きさであり、湾曲した幹のようなものも存在しない点を指摘し、若冲が空想を交えて描写したものであるとした[15]。植物学者の湯浅浩史は、実際のウチワサボテンには花弁の下に茎節があるが、『仙人掌群鶏図』に描かれたサボテンにはその部分が省略されている点を指摘している[16]

左右それぞれの襖の中央にサイズの大きな雄鶏が配置され、裏面に描かれた『蓮池図』と連動した構図となっていることが窺える[10]。極彩色の鶏図は『動植綵絵』でも確認できるが、それらと比較するとややのっぺりと平面的に描写されている[10]。『蓮池図』は墨画により寂寥感を強調した作品に仕上がっており、金地着色の『仙人掌群鶏図』とは根底から徹底した対比が採られている[17]

落款

右側の襖絵に「斗米菴米斗翁行年七十五歳画」とあり、白文方印で「藤女鈞印」、朱文円印で「若冲居士」が記されている[10]。「七十五歳」は寛政2年(1790年)にあたるが、この年若冲は大病を患い、寝込んでいることから、その前年の天明9年(1789年)制作が通説とされる[10]。落款に従い寛政2年(1790年)作としている資料もある[18]。「斗米菴」「米斗翁」といった落款は若冲が生活のために販売した作品に入れたもので、米一斗(十升)を墨画一枚と交換するという当時の境遇に由来している[19]

来歴

『仙人掌群鶏図』は西福寺の仏間にて制作され、そのまま西福寺が所蔵しているため、所有者の変遷は発生していないが、この作品を「発見」して世に紹介し、広く認知させたのは画家の石崎光瑤である[20][21]。世界を巡遊し、広く絵画古画の研究を行っていた光瑤は、1925年(大正14年)に『仙人掌群鶏図』を発見し、世に知らしめた[21]。1930年に修復が行われ、表面『仙人掌群鶏図』裏面『蓮池図』の分割が行われ、『蓮池図』は掛け軸へと改装された[5]

影響

群鶏図障壁画』(部分)

若冲は『仙人掌群鶏図』を制作した翌寛政2年(1790年)、伏見の海宝寺に『群鶏図障壁画』を制作しており、その中で『仙人掌群鶏図』の構図や意匠を流用している[22]京都国立博物館の福士雄也は、本作品について若冲の画業空白期を埋める最初の作品であるという点に注目した上で、これまでの画風と、『仙人掌群鶏図』以降の画風の違いを指摘し、晩年期の画風を決定づけた作品であるとし、鶏の形態について中国絵画の影響があったと言及している[23]

本作品に影響を受けたものとしては、石崎光瑤が1926年(大正15年)に制作した『鶏之図』があり、富山市郷土博物館に収蔵されている[21]

評価

美術史家の佐藤康宏は、本作品の写実性について南蘋画の影響を、素地や色配置について俵屋宗達尾形光琳といった琳派の影響を指摘しつつ、「その両者をデフォルメした形態どうしが共鳴・反発する力で統一したところに、この美しさは生まれた」と評し、若冲の代表作であるというだけでなく、金碧障壁画というジャンルにおける究極のスタイルを打ち出した傑作のひとつであるとしている[24]

『奇想の系譜』を著し、若冲を再評価したことで空前のブームを生み出した美術史家の辻惟雄[25]、完成度の面で琳派の金碧障壁画に匹敵する作品であると評した上で、「強烈な色彩が対置された画面はとてもまばゆく、いま見てもめまいを感じるほど刺激的です。しかし、これでも三〇〇年という時間を経た分、描かれた当初よりも色彩はだいぶ色あせているのだ、といったら驚くでしょうか」と、経年により色調の変化を経てもなお強烈な輝きを放つ作品であると賞賛している[26]

脚注

注釈

  1. ^ 壁面や襖、障子など、建築物室内に直接描かれる絵画の総称で、広義には障屛画と同義である[2]

出典

  1. ^ a b 紙本金地著色仙人掌群鶏図〈伊藤若冲筆/七十五歳の款記がある/襖貼付〉」『国指定文化財等データベース』文化庁。2025年8月29日閲覧
  2. ^ 吉田友之「障壁画」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社https://kotobank.jp/word/%E9%9A%9C%E5%A3%81%E7%94%BBコトバンクより2025年8月29日閲覧 
  3. ^ a b c 太田 2015, p. 144.
  4. ^ 小林忠「伊藤若冲」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E8%8B%A5%E5%86%B2コトバンクより2025年8月29日閲覧 
  5. ^ a b 若冲のハス、3年かけ修理へ~大阪・西福寺蔵「紙本墨画蓮池図」”. 紡ぐプロジェクト. 読売新聞社 (2021年8月23日). 2025年8月29日閲覧。
  6. ^ a b 辻 2020, p. 196.
  7. ^ 辻 2020, pp. 196–197.
  8. ^ a b 辻 2020, p. 198.
  9. ^ 辻 2020, p. 211.
  10. ^ a b c d e f 小林 2015, p. 138.
  11. ^ 豊中市教育委員会社会教育課『豊中の文化財』豊中市教育委員会、1989年、16頁。doi:10.11501/13274911https://dl.ndl.go.jp/pid/13274911 
  12. ^ a b 辻 2020, p. 204.
  13. ^ a b 辻 2020, p. 200.
  14. ^ 辻 2020, pp. 200–201.
  15. ^ a b 辻 2020, p. 201.
  16. ^ 小林, 小宮 & 湯浅 2016, p. 28.
  17. ^ 辻 2020, p. 205.
  18. ^ 小林, 小宮 & 湯浅 2016, p. 26.
  19. ^ 辻 2020, p. 212.
  20. ^ 齋藤優穂 (2025年1月25日). “伊藤若冲筆「仙人掌群鶏図」の仙人掌モチーフにおける博物学的知識の影響について”. 美術史学会. The Japan Art History Society. 2025年8月30日閲覧。
  21. ^ a b c 石崎光瑤生誕140年記念報道資料”. 京都文化博物館 (2024年5月21日). 2025年8月30日閲覧。
  22. ^ 大河 1993, p. 221.
  23. ^ 福士雄也 (2024年9月15日). “若冲晩年期の様式に関する一考察-西福寺の襖絵を中心に-”. 美術史学会. The Japan Art History Society. 2025年8月30日閲覧。
  24. ^ 大河 1993, p. 222.
  25. ^ 小林, 小宮 & 湯浅 2016, p. 152.
  26. ^ 辻 2020, pp. 204–205.

参考文献




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