乳井玄蕃
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| 時代 | 戦国時代 |
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 永禄8年(1565年)6月5日 |
| 別名 | 沙門大名 |
| 父母 | 乳井氏 |
| 子 | 乳井建清 |
乳井 玄蕃(にゅうい げんば、生年不詳 - 永禄8年(1565年)6月5日)は、戦国時代の武将。
陸奥国乳井城の城主であり、乳井福王寺の別当を務めた。その威風ある態度から、「沙門大名」と呼ばれた。
生涯
出自と勢力
乳井氏は熊野系の修験寺である福王寺をの別当を務める家であった。
玄蕃は、仏門に入った者(沙門)でありながら、武家としての力を持つ大名のように振る舞ったことから、「沙門大名」と呼ばれた。
暗殺
永禄8年(1565年)6月5日、乳井玄蕃は南部氏家臣で大光寺城主の滝本重行によって暗殺された。玄蕃の死後、子の建清は父の仇を討つことを誓うが、当時は若年であったため、すぐに仇討ちを果たすことはできなかった。
その後、建清は津軽為信の家臣となり、 大光寺城を落とし、仇敵である滝本重行の津軽駆逐に成功した。
脚注
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