高畑城 (陸奥国)とは? わかりやすく解説

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高畑城 (陸奥国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/13 00:00 UTC 版)

高畑城
青森県
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 滝本重行
築城年 室町時代末期
主な改修者 不明
主な城主 平岡盛影・乳井建清
廃城年 不明
遺構 土塁・堀
指定文化財 史跡等未指定[1][2]
埋蔵文化財
包蔵地番号
青森県No.210114高畑城遺跡
青森県No.210172高畑城(2)遺跡[2]
位置 北緯40度34分06.4秒 東経140度34分20.3秒 / 北緯40.568444度 東経140.572306度 / 40.568444; 140.572306座標: 北緯40度34分06.4秒 東経140度34分20.3秒 / 北緯40.568444度 東経140.572306度 / 40.568444; 140.572306
地図
高畑城
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高畑城(たかばたけじょう)は、青森県平川市高畑・吹上にあった戦国時代日本の城平城)。

概要

高畑城は、本郭・二郭・三郭によって構成される。本丸は、長方形で東西約100メートル、南北約70メートルである。二郭も長方形で東西約30メートル、南北約70メートルである。三郭も長方形で東西約80メートル、南北約60メートルである。各郭の四周には堀がめぐらされていたが、平城で防御力も弱かった。

歴史

戦国時代、乳井薬師堂の乳井城(大隈館)の館主にして、乳井福王寺の別当である乳井玄蕃は、周辺に武威を振るい周辺の南部氏とも対立していたが、玄蕃は大光寺城主・滝本重行に永禄8年(1565年)6月5日暗殺される。だが、玄蕃の子・乳井建清は、まだ若年であったため、仇討ちを自重していた。

高畑城はこのころ滝本重行が建清への備えとして築かれ、家臣の平岡盛影が入った。元亀2年(1571年)、大浦為信(津軽為信)は石川城和徳城を急襲し、石川高信をうちとった。建清もそれに負けじと高畑城を急襲し、平岡盛影を討って、高畑城主となると、大浦為信に臣従した。そのため、為信を討とうと南部信直が勢多石隠岐守の軍を送り攻め込んだが、建清は善戦し、その間に兼平綱則が兵150人で応援に駆けつけた。さらに九戸政実の謀反の噂が届いたため、勢多石勢は三戸に引き上げた。

天正7年(1579年)7月、比山六郎・七郎、北畠顕則・滝本重行らが平賀郡に侵入した。この時、城主建清が留守であったため、急襲され落城した。この時、乳井城・乳井茶臼館・乳井古館も落城している。しかし、大浦勢と六羽川で激突した比山勢は六郎が討ち取られ、大館に撤退している(六羽川合戦)。その後の高畑城については明らかでない。

脚注

参考文献

  • 菅英志 1980『日本城郭大系』新人物往来社
  • 沼館愛三 1981『津軽諸城の研究』伊吉書院

関連項目




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