三宅総堅とは? わかりやすく解説

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三宅総堅

(三宅総賢 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/22 09:25 UTC 版)

 
三宅 総堅
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:彦次郎
主君 畠山義総義続義綱
氏族 三宅氏
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三宅 総堅(みやけ ふさかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将能登畠山氏の家臣。

略歴

畠山義総義続義綱の3代に仕えた。天文23年(1553年)12月の温井総貞遊佐続光の七人衆体制における主導権抗争では、温井方に属して勝利した。また、永禄4年(1561年)正月には温井一党の叛乱を鎮圧した義綱に従い、その近臣として長続連の饗宴に列席している(『長家伝書』)[1]

永禄9年(1566年)には能登を追われて近江に出奔した義綱に追従した。同11年の義綱による能登入国作戦では、義綱軍の別働隊を率いて陸路加賀口から侵攻し、羽咋郡押水郷の坪山を占拠したが、やがて義綱方将士の離反に遭い、能登から撤退した(『自養録紙背文書』)[1]

名前について

『加能古文書』は、年不詳9月24日付の本誓寺文書にて温井続宗・三宅総広・神保総誠と連署される名を「三彦次 総賢(カ)」とし、「総賢」か「総堅」か字体が明瞭でないと付記している[2]。その後、当人物は「三宅総賢」とされてきたが[1]、2014年1月に発見が報道された天文17年(1548年)の銘の石塔に名前が刻まれていたことから、諱が「総堅」であることが判明した[3]

脚注

  1. ^ a b c 山本大小和田哲男『戦国大名家臣団人物事典 西国編』新人物往来社、1981年8月25日、56頁。ISBN 9784404010766 
  2. ^ 日置謙 編『加能古文書』金沢文化協会、1944年、581頁。全国書誌番号:46004881https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042122/294 
  3. ^ 川名俊「戦国期における守護権力の展開と家臣―能登畠山氏を事例に―」『ヒストリア』第248号、22–46頁、2015年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12529211/14 44頁註33。



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