三宅総堅
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 通称:彦次郎 |
主君 | 畠山義総→義続→義綱 |
氏族 | 三宅氏 |
三宅 総堅(みやけ ふさかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。能登畠山氏の家臣。
略歴
畠山義総・義続・義綱の3代に仕えた。天文23年(1553年)12月の温井総貞と遊佐続光の七人衆体制における主導権抗争では、温井方に属して勝利した。また、永禄4年(1561年)正月には温井一党の叛乱を鎮圧した義綱に従い、その近臣として長続連の饗宴に列席している(『長家伝書』)[1]。
永禄9年(1566年)には能登を追われて近江に出奔した義綱に追従した。同11年の義綱による能登入国作戦では、義綱軍の別働隊を率いて陸路加賀口から侵攻し、羽咋郡押水郷の坪山を占拠したが、やがて義綱方将士の離反に遭い、能登から撤退した(『自養録紙背文書』)[1]。
名前について
『加能古文書』は、年不詳9月24日付の本誓寺文書にて温井続宗・三宅総広・神保総誠と連署される名を「三彦次 総賢(カ)」とし、「総賢」か「総堅」か字体が明瞭でないと付記している[2]。その後、当人物は「三宅総賢」とされてきたが[1]、2014年1月に発見が報道された天文17年(1548年)の銘の石塔に名前が刻まれていたことから、諱が「総堅」であることが判明した[3]。
脚注
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