ワレリー・クバソフとは? わかりやすく解説

ワレリー・クバソフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:09 UTC 版)

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ワレリー・ニコラエビッチ・クバソフ
宇宙飛行士
国籍 ソビエト連邦
生誕 (1935-01-07) 1935年1月7日
ヴラジーミル州ヴャズニキ
死没 (2014-02-19) 2014年2月19日(79歳没)
モスクワ
他の職業 エンジニア
宇宙滞在期間 18d 17h 57m
選抜試験 Civilian Specialist Group 2
ミッション ソユーズ6号, ソユーズ19号, ソユーズ36号

ワレリー・ニコラエビッチ・クバソフロシア語: Вале́рий Никола́евич Куба́сов1935年1月7日 - 2014年2月19日)は、ソビエト連邦宇宙飛行士

クバソフは、ソユーズ計画においてゲオルギー・ショーニンと共にフライト・エンジニアとしてソユーズ6号に搭乗し、軌道モジュール内部に設置された自動レーザー溶接装置による金属の溶接実験を行った。しかし、装置のレーザー照準が不完全であったため、軌道モジュールの船体に損傷を与え、空気漏れ寸前となる程の深さの穴が開いてしまっていた。彼は、急いで溶接が完了した試料を回収して帰還モジュールへ退避し、地上からの指令により6号は直ちに地上へ帰還した。

続くソユーズ11号では、アレクセイ・レオーノフ・ピョートル・コロディンと共に搭乗し、サリュート1号へ向かう事が決定していたが、X線検査で自身の肺に影があった事から結核と診断され、他のメンバーと共にクルーから外されてしまった。しかし、ソユーズ11号は、地上へ帰還する際に空気漏れ事故が発生、交代したクルー3名全員が死亡するという悲劇に見舞われた。彼とレオーノフ、コロディンは、結果的に自分の病気に命を救われる事となった。しかも、その後の検査で結核の診断は誤診であった事が判明した。

その後、レオーノフと共にソユーズ19号アポロ・ソユーズ計画)に搭乗し、更に、インターコスモスプログラムでは、船長としてハンガリー人のファルカシュ・ベルタランと共にソユーズ36号に搭乗し、サリュート6号にドッキングして宇宙に長期滞在した。

またミール宇宙ステーションの開発にも関与していた。

1993年3月にソビエト連邦の宇宙開発から引退し、後にRKKエネルギアの副長官となる。

2014年2月19日、モスクワで死去[1]

参考文献

脚注





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