ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ_(オーヴルチ公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ_(オーヴルチ公)の意味・解説 

ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ (オーヴルチ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 00:59 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ
Ростислав Владимирович
オーヴルチ公
在位 1223年 - 1235年

死去 1242年以降
子女 ユーリー?
家名 リューリク家
父親 キエフ大公ウラジーミル4世
テンプレートを表示

ロスチスラフ・ウラジミロヴィチロシア語: Ростислав Владимирович、? - 1242年以降)は、ウラジーミル・リュリコヴィチの子である。オーヴルチ公(在位:1223年 - 1235年[1][2])。

生涯

ロスチスラフは、かつて自身の父ウラジーミル、祖父リューリクが治めたオーヴルチ公国1223年より統治した。それは同年のカルカ河畔の戦いキエフ大公ムスチスラフ3世が死亡し、オーヴルチ公位にあった父がキエフ大公となったことによる。1234年、父の派遣した外交使節と共にキエフからガーリチへ赴き、ガーリチ公ダニールを、チェルニゴフ公ミハイルに対する遠征に踏み切らせている。

ルーシ南部へのモンゴルの侵攻の最中、父のウラジーミルは1239年に死亡した。この時期にロスチスラフが何をしていたのかは、年代記には記されておらず、1242年ホルムにいたダニール(上記のダニール)の元へ現れたということのみが記されている。史料上に、以降のロスチスラフに関する記録はない。

ロスチスラフの妻に関しては不明である。子に関しては、1289年ヴォルィーニ公ムスチスラフ(上記のダニールの子)に服属したポロシエの公ユーリーという人物が、あるいはロスチスラフの子ではないかと推測されている。

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ 3.16. СМОЛЕНСЬКА ГІЛКА РЮРИКОВИЧА. СМОЛЕНСЬКА І ЯРОСЛАВСЬКА ДИНАСТІЇ // Л.Войтович КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ
  2. ^ Н. Маркевич. История Малороссии, Т. 5, М. 1843

参考文献

先代:
ウラジーミル4世
オーヴルチ公
1223年 - 1235年
次代:
ウラジーミル4世



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ_(オーヴルチ公)」の関連用語

ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ_(オーヴルチ公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ_(オーヴルチ公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのロスチスラフ・ウラジミロヴィチ (オーヴルチ公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS