ロシーユ・ド・ブロワとは? わかりやすく解説

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ロシーユ・ド・ブロワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/04 16:40 UTC 版)

ロシーユ・ド・ブロワ
Roscille de Blois

称号 ブルターニュ公妃
アンジュー伯妃
出生 925年
死去 不明
配偶者 ブルターニュ公アラン2世
  アンジュー伯フルク2世
子女 ドロゴ
家名 ブロワ家
父親 ブロワ副伯ティボー(長老伯)
母親 リシルド・デュ・メーヌ
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ロシーユ・ド・ブロワ[1](Roscille de Blois, 925年頃 - 没年不詳)は、ブロワ副伯ティボー・ランシェンとその妻リシルド・デュ・メーヌ(リシルド・ド・ブールジュ[2]の長女。

生涯

ブロワ伯ティボー1世の異母妹に当たる。

歴史学上用いられているロシーユという名は彼女はカペー朝の年代記『ティボー・ル・トリシェール(詐欺師伯)』の中で便宜上名付けられた仮名であり、正確な名は伝わっていない 。名をアデライードとされることもある。

ナント年代記には初婚の夫、ブルターニュ公アラン2世バルベトルト(捩髭公)と結婚した際の彼女の名前と正確な年月日が記録されていないが、結婚しブルターニュ公妃であったことは明記されている。

歴史家アルトゥール・ド・ラ・ボルドリー(英語)は、ロシーユの歴史的資料に本名の記録はないが、2人の婚約と結婚式はブロワ城ナントで行われたと推定している。

結婚後、およそ950年ごろにロシーユはアラン2世との間に1人息子のドロゴをもうけている。

アラン2世とは952年ごろに死別し、まだ幼少であった息子ドロゴがブルターニュ公位とナント伯位を相続し、ロシーユの兄ティボー1世がブルターニュの摂政となり、ブルターニュを支配した[3]

未亡人となったロシーユは、ティボー1世の命で、アンジュー伯フルク2世とすぐに再婚した。

ドロゴは958年アンジェにて幼くして不審死を遂げている(恐らく継父フルク2世による毒殺)。

ドロゴの死後、ロシーユの夫フルク2世が摂政となり、960年までナントを治めた。その後はアラン2世の庶子でドロゴの異母兄に当たるオエル1世がブルターニュ公位を継承した。

ロシーユの正確な没年月日は不明である。

参考文献

  1. ^ aucune source primaire ne précisant son nom l'historiographie moderne lui attribue parfois une variante de celui de sa grand-mère paternelle !
  2. ^ Fiche de Richilde de Bourges sur généanet
  3. ^ Sassier, Yves (1987-01-14). Hugues Capet. Biographies historiques (Fayard ed.). pp. 364. ISBN 9782213670027. https://books.google.fr/books?id=T5vR0ARexFoC 

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