レオポルト・ウラッハとは? わかりやすく解説

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レオポルト・ウラッハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/17 00:15 UTC 版)

レオポルト・ウラッハ
生誕 (1902-02-17) 1902年2月17日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
死没 (1956-05-07) 1956年5月7日(54歳没)
学歴 ウィーン音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 クラリネット奏者
担当楽器 クラリネット

レオポルト・ウラッハ[1](Leopold Wlach, 1902年[2]2月17日 - 1956年5月7日)は、オーストリアクラリネット奏者。

経歴

1902年にオーストリア=ハンガリー帝国時代のウィーンで生まれた。 1917年からウィーン音楽院で学び、フランツ・バルトロミーとヴィクトル・ポラチェク(ともにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者)に師事。1923年に優等で卒業した。 1928年からウィーン国立歌劇場及びウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者に、1931年からウィーン音楽院の教授になる。

1931年11月7、8日のウィーン・フィルハーモニーの定期演奏会(指揮:クレメンス・クラウス:Clemens Krauss)にドビュッシー:サクソフォンと管弦楽のための狂詩曲のサクソフォン・ソロ奏者としてレオポルド・ウラッハの名前が初めて掲載された。

クラリネットのソロとして名前が初めて掲載されたのは1937年6月24日のウィーン・フィル・メンバーによるロンドン室内楽演奏会でした。 その後、1938年7月9日にモーツァルトの交響協奏曲、1938年12月10日にウェーバー:小協奏曲、1941年11月14、15日の演奏会でモーツァルト:クラリネット協奏曲に続き、何度も協奏曲、室内楽などでプログラムで登場した。

また、1944年11月3、5、6日にウール:クラリネットの為の交響協奏曲、1945年3月24日にドビュッシー:クラリネットと管弦楽のための狂詩曲、1952年2月15日にイェッテル:Clarinettissimoなどの現代曲も演奏をしていた。

1954年、ウィーン・モーツァルト協会から「金メダル」を授与されたが、同年に心臓発作を起こした。 1954年12月16日のベートーヴェン演奏会で八重奏曲のメンバーに名前が掲載されていたが、これがウィーン・フィルハーモニーのプログラムに掲載された最後の演奏会となる。ウィンナホルンのゴッドフリード・フォン・フライベルク、フルートのハンス・レズニチェック、オーボエハンス・カメシュファゴットのカール・エールベルガーらとともに、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の最盛期を支えた。

弟子にはアルフレート・ボスコフスキーアルフレート・プリンツなどがいる。

脚注

  1. ^ 原発音に近い表記では「ヴラッハ」となる。
  2. ^ [1]



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